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これでいいのか大阪市政 「誰の為の地下鉄建設」  第7章 その1 

第7章 番外編
その1<雑感と思い出>



名将

名将と呼ぶにふさわしいと思うが、名将関一市長が勇気を持って、市議団の猛烈な反対を押し切り、始めた地下鉄事業を、その孫である、關淳一現市長が、同じく市議団の猛烈な反対を向こうに回し、幕を引く。何とも皮肉な結末ではある。しかし此処で幕を引ければ、關淳一も歴史に残る名市長となるであろう。



心に残る大阪市電の思い出



さて、大阪市電の路線の変遷(衰退編)と言う個人のWEBページ
http://page.freett.com/soundhis/shiden/rosenzu2.html 
に(大阪市電が走ったことのある経路図)と言うのがあって、かつて総延長124.9Km にも及んでおり市内をくまなく網羅していた様子が伺える。これらは、バスそして勿論地下鉄に転換されていっただけで、特許は活きている。


環状線も地下鉄中央線も、開通していなかった頃、天保山に行くのは子供心にも大変であった。


確か上六から、市電に揺られて大阪港まで出かけたように記憶している。でも懐かしくもあり、何となくぼんやりと覚えている


姉の高校の修学旅行先は九州であった、しかも往路は船!。
別府航路の関西汽船の客船、確か2000トンにも満たない小さな船であった様に記憶している。この辺の話は姉本人に聞かないとハッキリしない。


何と言っても姉と小生は11才離れており、見送りに行った当時は小学校にも上がっていない5才の頃。


出航時にはドラが打ち鳴らされ、用意しておいた紙テープで別れを惜しんだ事を覚えている。


天保山桟橋には親父の出張の時も見送りに出かけたので、その時の記憶と混同しているのかも知れないので定かではないが、当時、小生の印象では、いつもチンチン電車はそれなりに混雑しており、座席に座った記憶が無い。


中央大通りも開通しておらず、港通りを、ガッタンゴットン、グァーと騒音を撒き散らしながら走っていたように記憶している。


当時の大阪市電には最新のカルダン駆動の大型のボギー車もあったようだが、小生の記憶にあるのは、吊り掛け駆動方式台車の小型車両で良く揺れることと、けたたましい騒音が強く印象に残っている。


<つづく>



[2007/11/03 20:15] 大阪のこと | TB(0) | CM(0)

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