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【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第39話  

第39話 長女由有紀の結婚


この年1973年(昭和48年)は近鉄にとっても良い1年であった。


先に述べた、上本町ターミナルビルの全館完成に続き10月には名古屋線四日市駅周辺の連続立体交差事業も完成、大阪線の複線化工事も着々と進んできていた。この年10月11日JALが国内線にB747SRジャンボ機を投入、国内線の大量輸送時代が幕を開けた。


そして翌1974年(昭和49年)5月長女由有紀が4才年上の船守健(ふなもりたけし)と結婚した。


喪明けのその年の正月、娘たちは小学校からの習慣で吉野の実家に行っていた、徹路も年末年始恒例の昼夜運転の緊急に備え徹夜で待機した後、元旦のお昼頃実家に戻ったが、既に長女は用がが有るからと、神戸の独身寮に帰ったと言うことだった。


母寿美が亡くなって、お節など期待していなかったが、実家の近所に住んでいる妹幸子に教えて貰って、娘達2人で力を合わせて作ったという。


この年82才を迎える父庄一はまだかくしゃくとしており、流石に、80を過ぎてからは、危険な伐採の仕事はやっていないらしいが、山の手入れには毎日通っていると言う。そんな年老いた父を気遣って、妹幸子は


『私んとこは、舅も姑も亡くなってるし、子供も全部独立して都会に出たんで、私たち夫婦と一緒に住もうよ』と言ってくれたそうだが、
『まだまだ娘の世話何ぞにはなりたくない』
と実家に1人で住んでいると言う。徹路もかねてから、責任を感じ『富雄で僕たち家族と暮らそう』と言っているのだが、
『俺は、木樵だ山から離れては活きていけない』と言って、1人暮らしを続けているのだった。


そんなこんなで、その年の正月は長女由有紀とすれ違いで会えなかった。


その娘から3月に成って突然、”21日木曜の祭日に富雄に帰ります、お父さんに合わせたい人がいるので家にいてほしい”と電話がかかってきた。


そして21日に船守という青年を連れて帰ってきた。眼鏡のよく似合うその青年は、なかなかの好青年で、聞けば同じ神戸大学の先輩で、徳島から出てきて幸子と同じ独身寮に住んでいて、知り合いになったという、海洋部造船技術課の主任設計技師だという。それで先輩の紹介かと思っていたら、いきなり。


『お父さん、実は娘さんの由有紀さんを戴きたくて、参りました。』ボーイフレンドの紹介にしては些かにおうと思ってはいたが。
いきなり、切り出されたので少々驚くと。
『…』
『是非、この私に、娘さんの将来を託してみてください。ヨロシクお願いします。』
見れば、額に汗をかきながらの熱弁であった。
勢いに押されて、オーケーを出してしまった。


それから後は、それまで黙っていた娘が一転してしゃべり出し、
”結婚式は、2人きりでハワイで挙げてくる。新居は会社の社宅を手配してある。私も仕事がおもしろくなってきたところなので、当分は共働きで頑張る等”と、演説しまくった。


いくら、不仲だとは言え、娘の結婚式位は盛大にやってやりたいと思っていたが、見事カウンターパンチを浴びてしまった。


一度言いだしたら聞かない性格はよく知っているので、聞くだけ聞いてその場は何も言わず、お引き取りいただいた。
後日、電話で


『この前は、良いと言ったが、向こうのご両親は了解済みなのか』
『勿論、健さんがOKを取っているわよ』
『向こうのお宅に伺わなくて良いのか?』
『帰ってきたら、ささやかなパーティーを開くからその時に紹介するわ』
『いくら何でも、そんなので良いのか?』
『健さんが、それで良いと言ってるわ』
『金は大丈夫七日?』
『お金のことなら心配しないで、それぐらいの蓄えは有ります。』
『そうか、判った、…だがなんか有ったら、言ってこいよ』
『有り難うお父さん。ワガママ言ってゴメンナサイ』
『そうか、じゃー』
『私きっと幸せになるからね、心配しないでね、お父さん。又電話するは、有り難う』
そう言って娘は電話を切った。


<続く>



[2008/01/29 21:45] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

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