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【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第30話  

第30話 近鉄難波線着工


1965年(昭和40年)大阪万博の開催が決定した。

この年4月、次女未來が帝山女子高等学校に進学した。

初めは
『姉さんと同じように電車通学がしたいから、帝山はイヤ』と言っていたが、祖母寿美と徹路に諭され、スクールバスで行ける帝塚山女子高に入学した。
この時も、徹路は休暇をもらい、入学式に参列した。


同年6月名神高速道路が全通した、ハイウェー時代の夜明けである。
9月地上10階地下3階の近鉄百貨店阿倍野本店新館が完成した。
そしてこの年の10月悲願の都心部乗り入れに向け難波線が上本町地下駅から着工された。
折しも、”いざなぎ景気”が到来、5年後の万博に向け、大阪の町は何処よりも早く沸騰しだしていた。


鉄朗から電話がかかってきた。


『布施さん、おめでとう御座います。』
『西宮さん有り難う御座います』
『僕の所は、もう少し時間がかかりそうです』
『そうですか、せいては事をし損じるですよ鉄朗さん』
『有り難う御座います、徹路さんとの約束は必ず守りますから待っていてください』
『難波駅は社長命令で、阪神さんがいつでもこれるように設計しましたよ』
『有り難う御座います、待っていてください、必ず行きますから』『ハイ、お待ちしていますよ』
『それでは、又その内に機会を作って合いましょう』
『本日はおめでとう御座いました、失礼します』
『有り難う御座います、失礼します』


そして翌1966年(昭和41年)4月長女由有紀が神戸大学工学部機械工学科に進学した。
『神戸までの通学は大変だから、近くの大学にしておきなさい。』と言う、徹路と寿美の忠告も受付ず、同大に進学した。


言いだしたら、聞かないのは徹路譲りであった。


当時は、女子寮に入るか、4畳半一部屋の下宿住まいをするか、自宅から電車通学をするか、その位しか選択技は無く、今のように、フローリングのロフト付き1ルームマンションに1人住まい等、はとうてい考えられない時代であった。
彼女は、一言も愚痴らず、毎朝早く、神戸に出かけていった。


同月その後に続く海外旅行ブームのきっかけとなる外貨持ち出し枠の年間5万円までが一回5万円までとなり実質撤廃、海外渡航が完全に自由化された。


その年1966年(昭和41年)の11月日本橋駅が着工となり、
同月、地上10階地下3階の近鉄名古屋駅ビルが完成した。


この年の12月16日名阪国道が開通した。
開通当初は車もまばら、大型の観光バスが利用するぐらいの観光道路だった。


そして翌年1967年4月難波駅建設工事が着工した。
同月本社、経営企画部と徹路の企画統括部が共同で、伊勢志摩総合開発事業計画と、上本町駅ターミナル整備計画を策定した。


この年の8月阪神ナンバ線の用地買収も始まった。ところが事はそう簡単に進まなかった、地元商店街が、ミナミに客を奪われることを懸念、町が分断されると市会議員に持ちかけ、住人を巻き込んで反対運動に回った。住人説明会迄拒否する有り様で、岩礁に乗り上げ、しばらく静観しようと言うことになった。


鉄朗は、一部始終を徹路に電話で説明し、自分の至らなさを詫びた。


『鉄朗さん、仕方ないよ、根気よく働きかければ、皆も判ってくれるよ。そうがっかりしないで』
『有り難う、でも本当に済まない、私の力が到らなくて』
『そうがっかりしないで、私はお先に難波で待っているから気を落とさないで頑張ってください』
『有り難う…』


徹路は電話の向こうで心から詫びる鉄朗の姿が目に浮かぶようで、それ以上何も言えなかった、と同時に前途の多難さを直感した。


<続く>

[2008/01/20 00:06] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

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