スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[--/--/-- --:--] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第23話  

第23話 名物部長の誕生


工事も中盤に入った翌1955年(昭和30年)、朝鮮戦争での特需景気をバネにすっかり回復した日本経済は、神武景気と言われるほどの好景気に湧いた。


旺盛な需要を見込んで翌1956年(昭和31年)2月阿倍野近鉄百貨店の増築工事が着工された。


同年4月次女未來が小学校に入学した、前々年の1954年(昭和29年)長女が小学校に入学したときは、仕事の都合で休みが取れづ、妻の梨花だけが入学式に参列したが、今度は、徹路も、休暇を貰って、参列することが出来た。
それから毎日姉妹は仲良く、手を繋いで登校した。


9月28日、宿願の名古屋線河原町ー海山道間の新線が開通し名古屋線に大型車両が投入された。


そして12月8日には上本町ー布施間の複々線工事が完成した。
名阪連絡特急の所用時間は、それまで戦前の連絡急行並みに留まっていた2時間55分を20分も短縮し2時間35分で駆け抜けるようになった。


又同年10月には長野線の古市ー富田林間の複線化工事が着手されていた。
更に同じ月の10月28日には浪花のシンボル”通天閣”が完成していた。
名古屋のテレビ塔に後れる事2年、戦時中、火災にあい解体され、供出の憂き目にあっていた、”通天閣”が地元有志の力で蘇ったので有った。


徹路も部下達に誘われ見物に出かけたが、黒山の人だかり長蛇の列で、とても展望台に上がれる状態ではなかった。


翌年1957年(昭和32年)徹路はこれまでの功績を評価され山本部長の技術本部本部長就任と同時に、40才の若さで後任の土木部長に抜擢された。


そしていよいよ手狭になった、社宅住まいを諦め、当時宅地開発の最中にあった、奈良線富雄・学園前周辺に移り住む決心をしていた。
昭和25年から始まった住宅金融公庫の住宅ローンと昭和30年から前年まで続いた神武景気に押されて、庶民でも一戸建て住宅が夢ではなくなってきていた。


住宅金融公庫の審査がおり、会社の社員共済組合から、借金をし、貯金と合わせて、南向きの平屋のこじんまりとした家を、富雄駅から10分ほどの傾斜地に建てることが出来た。


10月に完成した新居には和室の6畳間2部屋、同じく6畳間のリビング兼応接の洋間、4畳半のダイニングキッチン、玄関とそれに何より風呂場が出来た。


10才と8才になった娘達は、冬場、寒い思いをして銭湯に行かなくて済むようになると大喜びであった。妻の梨花は歩いてすぐいける所に市場が無く、買い物が大変になると少し不満げであった。


徹路も天王寺の本社迄通うのに、以前より少し時間が掛かる様に成ったが、喜ぶ娘達の姿を見て大満足であった。


この頃には名古屋線の揖斐川・木曽川橋梁の複線化に伴うかけ替え工事はもう始まっており、技術本部内ではその次に控える大事業、名古屋ー中川間名古屋線全線約80kmを1435mmの標準軌に改軌する事業計画を1960年(昭和35年)の着工に向けて準備している真っ最中だった。


<続く>
[2008/01/07 00:13] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://digitanu.blog44.fc2.com/tb.php/130-e684b361







上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。