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【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第16話  

第16話 大阪高速鉄道と2人の人物


西宮鉄朗もある意味努力の人であった。


1923年(大正12年)2月尼崎に生まれた西宮は、子供の頃からの大阪タイガースファンで、野球選手を志、名門浪華商業学校に進学した。西宮の進学した1935年(昭和10年)春同校は系列校で起こった不祥事のために春の選抜を辞退していた。


野球部員たちは、夏の大会での汚名返上に向けて、必死で頑張っていた。鉄朗もレギュラーを目指して、毎日練習に明け暮れていたが、そんな鉄朗に悲劇が起こった、1年の3学期、新チームでレギュラーの座が決定し”今年こそは”と頑張っていたところで肩を壊してしまったのである。


野球部を退部せざるをえなくなり、一時は学校もやめようかと悩んだが、一念発起、今度は大学を目指して猛勉強を開始した。そして1939年(昭和14年)大阪商科大学(現大阪市立大学の前身)付属の高等商学部に見事入学、1943年(昭和18年)同大学予科に入学1945年(昭和20年)戦時の特別処置で繰り上げ卒業、陸軍に入隊したが内地でそのまま終戦を迎え、退役同年12月、野球部の先輩の伝で子供の頃からズーと憧れてきた大阪タイガースの親会社である阪神電気鉄道に入社した。


翌年1946年(昭和21年)4月1日終戦から1年も経っていない戦後の混乱期に近鉄と阪神を結ぶ鉄道を実現するため両者の共同出資で大阪高速鉄道が設立された。


確かに、戦後復興の為に東西を結ぶ路線は必要ではあったが、戦災の復旧も完全には終わっていない時期に、莫大な費用の掛かる新線を建設しよう等とは常人なら思いもよらない時期である。

これには、当時の近鉄社長佐治一徹(さじいってつ)の強い思いがあったからに他ならない。


佐治一徹という人は、1911年(明治44年)1月奈良市の造り酒屋の長男として生まれた。1931年(昭和6年)に旧制大阪工業大学に入学(卒業時は大阪帝国大学)卒業後は、大阪電気軌道に入社、めきめき頭角を現し、子会社参急による名古屋の関西急行電鉄、の吸収合併、その参急を合併して関西急行鉄道を設立、今の近畿日本鉄道にいたるドラマの立役者の1人である。

戦前戦後を通じて、関西財界に広い人脈を持ち、また影響力を発揮した人物でもあった。


彼は、『鉄道は公共財であり、且つ営利事業でもある。そうである以上儲からなければ意味がない、言い換えれば社会から重宝がられる存在でなければならない!』
と言い続けてきた人物である。だから、戦後一年も経っていないこの時期に、敢えて、近鉄ー阪神連絡鉄道の実現をブチあげたのであった。


阪神側からは、入社仕立ての西宮鉄朗と数名が出向社員として派遣されてきた。


そして、新会社設立から間もない5月、揖斐・長良川鉄橋の復旧工事が完成し本社に帰ってきた徹路も、社長命令で新会社に出向と成った。


これが、西宮との最初の出会いであった。


徹路達の仕事は、近鉄、阪神両者で合意の成立した阪神野田駅と近鉄鶴橋駅を難波経由で結ぶ新線の建設準備とその為の軌道特許申請書類を作成することであった。


徹路は路線の詳細計画と基本設計など、技術関連担当。
鉄朗は事業計画、と申請書類を作成する事務方の仕事である。


鉄朗にとっては、初めての大仕事、
徹路にとっては念願の”新規路線”の基本設計である。


『金のことは心配するな、お前達は”ご利用下さる乗客の皆様”の期待に答えられる様、立派な鉄道を計画しろ。』


そう言って、佐治社長は激励した。


<続く>
[2007/12/27 21:48] 鉄道小説 | TB(0) | CM(1)

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[2008/12/05 00:30] [ 編集 ]

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