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【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第11話  

第11話 伊勢若松の名古屋線改良工事現場。


出張先は伊勢若松の複線化工事の工区だった。


ほぼ5年前の1938年(昭和13年)6月参宮急行電鉄が津ー江戸橋間を開業、続いて同月関西急行電鉄が桑名ー関急名古屋間を完成。伊勢中川、江戸橋と2回乗り換えが必要ではあったが、曲がりなりにも、上本町ー関急名古屋間は1本の鉄路で繋がっていた。その後同年12月参急が伊勢中川ー江戸橋間を標準軌から狭軌に改軌、伊勢中川で一度乗り換えるだけで上本町から関急名古屋までのルートが完成していた。


1940年(昭和15年)には参急が関西急行電鉄を翌年1941年(昭和16年)には大阪電気軌道が参急を合併し、徹路の入社した関急急行鉄道が発足し、国鉄以外のルートで一枚の切符で上本町から名古屋まで行ける様になっていた。


しかし、紆余曲折を経てのルート、名古屋線とは名ばかりの、継ぎ接ぎ路線であった。
途中には不自然なカーブや、単線区間も多く、とても東海道線と互角に戦える路線ではなかった。


伊勢若松までは長い道のりである。市電で上六に向かい。自社線の急行で伊勢中川まで向かい、名古屋線に乗り換えて4時間位かけ、目的地の伊勢若松の現場事務所に着いたのは、午後3時まえであった。


この時、徹路は初めて青山峠・青山トンネルを体験した。徹路は、図書館でみた、ロッキー山脈越えの写真集を思い出し、まだ見た事のない彼の地の有名な峠に思いをはせた。


『日本にもコンナ所があったんだ!』


この時の強烈な印象が、大陸横断鉄道の列車を範とした後の初代ビスタカーのデザイン決定の決め手となった。


現場事務所のバラックでは、所長の阿部係長と副所長の井上主任が到着を待ってくれていた。井上主任の向かいに席を与えられ、早速工事の進捗状態の説明と、明日からの仕事の分担を決められた。


一応新人でもあり、ある程度の期間は副所長である主任について、のんびりさせてもらえるのかなと思っていたが、早速下請けの一つを預かることになった。


打ち合わせの後、何軒かある下請けの工事事務所全てに案内され、それぞれの会社の現場責任者に紹介された。


4時半時頃から、下請けを交えて、その日の報告と翌日の工事予定の打ち合わせ会議があり、6時頃にやっと宿舎である隣の場(はんば)に案内された。ドラム缶の風呂に、土方(労務者)の人たちが代わる代わる浸かっていた。


宿舎は8畳ぐらいのバラック小屋、所長と副所長と徹路3人の相部屋であった。
食事は別棟の食堂で所長、主任それに下請けの建設会社の労務者達と一緒に取った。
食後2人は『明日の打ち合わせが残っている』と言って事務所に帰った。


『コンナ所とは思わんかったやろ』

先に場に帰ってきた主任が申し訳なさそうに言った。

『イイエ、戦地の野営地に比べれば天国です。』
『そうか、?』
『まあ…、此処なら腹一杯食い物はあるし…』
『ヘエ…戦地は食いもんも無いんか。』
『…』
『所で、君は酒は飲まんのか?』
『ハイ、酒も煙草もたしなみません』
『そうか、酒も、煙草もか…』
『ワイは、これがないと眠られへん。』

そう言って、焼酎の入った一升瓶を持ち出した。

『ほな。しゃあないなー、まあエエわ、…手酌でと…。』

主任は、茶碗酒を2杯ほどあおって床についた。



<続く>

[2007/12/18 22:11] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

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