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【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第3話  

第3話 <徹路の故郷(その2) 徹路の幼少期 前編>


両親が結ばれ、1年後の1917年(大正6年)1月10日布施徹路は生まれた。翌年11月世界大戦が終結した。


徹路が2歳の年、長女幸子が生まれ、祖祖母キクが70で亡くなった。5歳の年の11月、祖母安江が脳梗塞で突然倒れ帰らぬ人となった。47歳の若さであった。夫に先立たれ、がむしゃらに働き通した半生であった。末娘の春美は3月に生まれたばかり、2女の秋美がやっと2歳になったばかり。乳飲み子と手の掛かる子供達を抱え、姑に先立たれ母寿美は鳴きくれるばかりだった。


翌年1923年(大正12年)徹路は6才に成って、となり村の尋常小学校の分教場に通うようになった。


この年は9月に関東大震災、それに続いて震災恐慌が起こり、決して良い年ではなかったが、後の徹路終生の友”西宮鉄朗”が生まれた年でもあった。
更に12月には徹路の運命を変えた、吉野鉄道が橿原神宮前ー吉野口間に新線を完成させ、先に開通していた吉野口ー吉野(現在の六田駅)も含めて全線電化完成、翌年の橿原神宮前ー国鉄畝傍駅間の新線開業と会わせ、桜井の木材市場への吉野杉出荷で六田の当たりは活気づいていた。


震災恐慌もひとまず収まり、吉野村の林業も再び活気づいてきた、1926年(大正15年)6月7日後に妻となる 梨花(りか)が小学校の校長の娘として誕生した。


翌年1927年(昭和2年)徹路は高等小学校に通うため父方の叔父を頼って村役場のある上市の街に出て来た。


この町で徹路は旧制吉野中学を卒業する昭和8年までの6年間を過ごすこととなる。
この年、昭和の金融恐慌が起こった。吉野村でも、木材不況となり、林業、製材業などが打撃を受けていた。


父とは8才離れている叔父の清は父とは違って、怠け物であった、父の口利きで街の製材所に勤めていたが、仮病で休むことも多く、おまけに貧乏人の子だくさんで、まだ小学校にも上がっていない5才の長男を頭に4人の子供達が居た。


『どうせ4人も居るから一人ぐらい増えても一緒だ』と預かってくれたのだが、徹路の実家の納屋の方がよっぽど立派に見える、まるで掘っ立て小屋のようなあばら屋に家族6人が暮らしていた。


徹路の実家からは、徹路が厄介になっているからと、材木不況で苦しい中、毎月某かの金子が叔父の元に届けられていた様であったが、学校から帰ってきては、子守、水くみ、薪運びとこき使われて、おまけに満足な食事も与えられていなかった。


<つづく>
[2007/12/02 20:23] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

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