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阪神なんば線 建設秘話 【小説】69年間待ち続けた男   最終回 

第67話 最終回 鉄朗の墓前に開通を報告する。


開通式を終え鉄朗は阪神芦屋駅まで足を伸ばした。

鉄朗のお墓参りをするためである。

鉄朗の墓は阪神芦屋駅からタクシーで10分ほどの鷹尾山の麓にあるお寺にあった。

駅前の花屋でお花を買い、お寺に着いた、住職にお願いして、墓に案内して貰った。

墓は見晴らしの良い高台にあり、鉄朗が愛した阪神電車が見通せる場所に建っていた。
墓には、真新しい花が供えられており誰かが先にお参りしたようだった。

墓に、水を掛け、お花を捧げ、お線香を上げてから。
鉄朗に話しかけた。
『鉄朗さん、僕が何に乗ってきたか知ってるかい? 近鉄電車だよ! 誰か先に鉄朗さんに知らせたかも知れないけれど、鉄朗さんの阪神なんば線がついさっき開通したんだヨ!それで早速鉄朗さんに知らせなくちゃ、と思って乗ってきたんだよ。』
『実は今まで鉄朗さんには言わなかったけど、気持ちが落ち込む度にナンバ駅待避線の突き当たりの壁の前に立ち、”今にきっとこの壁が無くなり、阪神の地下トンネルがこの先に続く日が来るから、それまでは元気で頑張らなくちゃ”と自分に言い聞かせてきたんだよ…、鉄朗さん、その日がやっとやってきたんだよ』
『初めて鉄朗さんと出会った日、鉄朗さんは覚えているかい?』
『あれからもう69年が経ったんだね。』
『あの頃のことを、昨日のように思い出すよ、2人で毎日夜遅くまで頑張って、特許申請書類を作ったんだよね。』
『鉄朗さんには色々教えて貰って、剣道と合気道以外知らないスポーツ音痴の僕に野球の楽しさを熱っぽく語ってくれたんだよね。』
『平成16年に近鉄バファローズは無くなってしまったんだが、鉄朗さんのおかげで、野球放送を見るようになったよ。』
『ご免ご免、今日は開通式の様子を報告に来たんだった、鉄朗さんに会うと、昔が懐かしくて、つい昔話をしてしまって。』
『一番線に始発の祝賀列車が到着する様子は、実に感動的だったよ、音楽隊の六甲下ろしに迎えられて、一番列車が入線してきたときには、思わず涙が出たよ。』
『祝賀列車から降り立った君ン所の安藤社長と。うちの国分君ががっちりと握手をしてね。感動的だったよ』
『インタビューで国分君がね、これで、白鷺城と名古屋城が近鉄特急で結ばれるとつい言っちゃってね、安藤さんから窘めめられる一幕があったりしてね、つい笑っちゃったよ。』
『アアそうそう、祝賀列車に招待された鉄朗さんのお孫さんに会ったよ。やあ、あんまり鉄朗さんにソックリだったんで、驚いたよ。』
『僕も92に成ったし、何時君ん所に行っても可笑しくないんだけど、もう少し見届けたい夢もあるし、もう少し待っててくれ。』
『実は、この前うちの国分君に打ち明けたんだが、”南大阪線をなには筋に乗り入れて、新大阪まで、延ばしてみてはどうか”とね。』
『あの国分君だから、真意は読めないが、”おもしろいアイデアだから企画部に一度検討させてみる”と言ってくれてね、ついでに”実現するまで生きておいてください”と言われたよ』

徹路は、鉄朗と会話を楽しむように、独り言を言い、最後にもう一度手を合わせてその場を去った。

午後3時頃富雄の自宅に戻り、仏壇の前に、座敷机を置き、家政婦さんに頼んで、一合とっくりを燗して貰い、白菜の淺漬けをつまみながら仏壇の前の座敷机に座り、亡き妻梨花に報告を始めた。
『ただ今戻ったよ、実はね、今日は鉄朗さんに会いに芦屋川まで行ってきたんだよ、イヤ実はお前もよく知っている阪神なんば線が今日やっと開通してね、そのことを鉄朗さんに報告に行って来たんだよ、』
『69年前はお前さんにもずいぶん、苦労を掛けたが、今日やっとお前さんの苦労に報いることが出来たようなきがするよ』
『これで、孫達にも、”お爺ちゃんは嘘つきだ”なんて言われなくて済むようになるよ。ワ、ハ、ハ、…』
『92に成ったけれど、もう少し待っていておくれ、鉄朗さんにも言ったんだけれど、今度は南大阪線を新大阪まで乗り入れたいんだ、実現の可能性は少ないけれど、夢が叶うのを見届けるまではもう少しこちらに居させて貰うよ。』
慣れないお酒を飲んだ、徹路は良い気持ちになってそのまま仏壇の前で寝入ってしまった。


終わり


長い間のご愛読有り難う御座いました。
69年間待ち続けた男は今回をもちまして最終回とさせていただきます。
今後ともお引き立て下さいますようお願い申し上げます。
                                     デジタヌ

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[2008/03/26 22:14] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第66話  

第66話 徹路の夢 その2

日本初フリーゲージトレインの導入で近鉄特急のさらなる躍進を!

少し前の話題になるが1999年(平成11年)1月専門誌に
”日本初のフリーゲージトレインが(JR総研により)開発され山陰本線(米子~安来)で試験運転が実施された,今後米国コロラド州TTCIプエブロ実験線で4月から約2年間に渡り高速耐久試験が行われる予定”
との報道が有った。
徹路はこの記事を読み、”これだ”と思った。

近鉄は創業以来ゲージの違も何のその、どん欲に吸収合併を繰り返し路線を延ばしてきた。
それ故にゲージの違いによる不都合を克服する苦労も他の私鉄以上に味わってきた。

そんな近鉄と共に歩んできた徹路にとっては、”フリーゲージトレイン”というひびきは、福音のようにさえ聞こえたのであった。

例えば、徹路の故郷”吉野”であるが、長年東京にたいする距離感は否めない状況が続いている。
しかし、この魔法の列車が実用化されれば、”花の吉野”は東京から見ても、京都の奥座敷程度にまで身近になるのである。
つまり橿原神宮前で乗り換える事無く、座ったままで京都駅から終点吉野駅まで行けるようになるので有る。

第一次試験車両による検証試験で明らかになった幾つかの問題点も、電化方式(直流1500v)信号方式、車両限界全て共通で軌間(橿原線/標準軌1435mm と吉野線/狭軌 1067mm) だけが異なる近鉄の場合は障壁にならないと徹路は考えている。
軌間変換に1両当たり1分以上要すると揶揄されている件も、4両程度で運行されている近鉄特急では問題にならないと考えている。

スペイン・タルゴ社からのライセンス供与で同台車を国内開発している住金と近鉄は旧知の間柄である。
2007年(平成19年)2月9日から第二次試験車両による実証試験がJR小倉工場-西小倉駅間で在来線を用いて開始された今こそ、近鉄が国内におけるフリーゲージトレインの導入第1号に名乗りを上げ、近鉄の技術力を示して貰いたいと徹路は願っている。

JRとの特急共同運行で”桜ライナー”を新大阪まで。

JR東日本では、以前から民鉄と協力してリゾート特急の共同運行が盛んである。
伊豆急乗り入れの、「伊豆の踊子号」小田急とJRによる新宿ー沼津間の「特急あさぎり」、最近では東武とJRによる新宿ー東武日光ー鬼怒川間の「特急きぬ」がこれに仲間入りをはたした。
近畿でも、古くは南海と旧国鉄が、「急行紀国号」を共同運行していた歴史がある。

近鉄とJR西日本もこの方式を導入し、道明寺線を連絡線として利用し柏原で大和路線に乗り入れ、”桜ライナーを新大阪駅まで乗り入れることが出来ないか?”と言うのが徹路の望みである。

近鉄は開業以来大阪市の”南の関所”天王寺・阿倍野で足止めされ、先には進めず、為に乗客は”乗り換え”という不便を強いられている。
近鉄とJRが手を結べば、大阪の誇る桜の名所”吉野山”に新大阪から座ったままで直行出来ることになる。
その昔は、貨物列車がお互いの路線を往き来していた経緯もある、徹路には決して実現不可能だとは思えない。

おおさか東線が開業した今、快速の東線乗り入れで、大阪環状線のダイヤにも多少は余裕が出来たはずだし、”1時間に1本程度の桜ライナーだったら、ダイヤに潜り込ませることも十分可能ではないか?”と徹路は思っている。


<続く>




[2008/03/25 16:25] 鉄道小説 | TB(0) | CM(1)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第65話  

第65話 徹路の夢 その1


南紀の悲願 大阪”南北串刺し路線”実現の夢


2008年3月11日”阪神なんば線地下トンネルが前日10日貫通した”との知らせが徹路のもとに入ってきた。


”後一息で長年の夢が叶うのか…”
徹路の脳裏には62年間の出来事が走馬燈の様に駆けめぐった。



思えば1997年(平成9年)3月8日のJR東西線開業により、改めて浪華 ”串刺し路線”の存在意義が見直され、JR東西線の大成功が阪神なんば線実現に向け、地元(大阪市)の態度を軟化させた最大の要因ではないか、と徹路は考えている。



さらに現在、建設中の京阪中之島線完成後、阪神野田駅方面に延伸し、阪神ー京阪の相互乗り入れを実施する案も検討されだしていると聞いている。



国道1号線沿いに伸びた京阪と、同じく2号線沿いに伸びた阪神が結ばれれば、大阪近郊の交通事情は劇的に変わるであろう。
JRの前身国鉄でさえ実現できなかった、東西幹線国道沿いの”串刺し路線”が実現することになる。
ご承知の通り、東海道本線は、沿線住民の反対にあい、1国、2国から遠く離れた所に引かざるを得なかった経緯がある。
今でこそ梅田界隈は大阪を代表するキタの歓楽街として有名ではあるが、東海道本線が敷設された頃は、町外れの集落にしか過ぎなかった。



”地の果てにたどり着き、眼前に大海原が広がりでもし無い限り、道路や鉄道に終点は無い”というのが鉄道マンとしての徹路の哲学である。



ましてや、地の果てでもない、近畿のど真ん中の大阪が、鉄道の終点になり、乗り継がなければ、その先に進めないなど、徹路には容認出来ない事であった。だから阪神ナンバ線を69年間も待ち続けることが出来たのである。



そして、徹路が更に69年間待つことになっても、実現して欲しいと思っている。今一番の夢は、”南北串刺し路線”の実現である。
それはナニワ筋の地下に、地下路線を建設し、近鉄、JR、南海が共同運行で新大阪駅に乗り入れ、大阪南部と新大阪が一本の鉄路で結ばれる事である。


大阪市に阻まれ、新大阪、伊丹の大阪空港、の両ハブターミナルへのアクセスに不便を強いられ、経済活動を著しく阻害されてきた、和歌山市、や堺市に取っては、乗り換え無しで両ターミナルへ、直結することは長年の悲願でも有った筈である。


近鉄が音頭を取って、JR、南海、そして、奈良県、和歌山県、堺市、和歌山市などの周辺自治体、関電、NTT西日本、大阪ガス、住金、UFJ銀行…等など、関西の財界に働きかけ、関西の総力を挙げれば、㎞当たり500億円、総額5千億円超とも言われる建設費を集めることも決して夢ではないと考えている。


関西ゆかりの企業に出資を仰ぎ、浪華高速鉄道を立ち上げ、近鉄、JR、南海が共同運行で相互乗り入れを実施すれば、大阪の鉄道の歴史はじまって以来の快挙となるであろう。



<続く>
[2008/03/24 21:08] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第64話  

第64話 徹路の感慨


2006年(平成18年)3月近鉄けいはんな線 生駒ー学研奈良登美ヶ丘間の新線が開業した。
近鉄久々の新線誕生である。
大阪市、大阪府、奈良県、からの要請を受けての、東大阪線の延伸工事であった。
近鉄一筋の土建屋としては久々の新線建設でもあり、張り切らざるを得なかったが、正直それほど燃える工事ではなかった。


機械化が進んだ今の工事では、現場の土建屋の経験は余り必要なくなっていた。
さらに、トンネルと盛り土が殆どの工事ではさほど技術者としての興味もそそられ無かった。


それに、今までの路線と違い、全くの単独路線である。
当初より赤字経営が確実視され、将来廃線の憂き目にあわないとも限らない路線である。
何故コンナ路線を引く羽目になったのか徹路には納得いかなかった。


2007年(平成19年)秋、阿倍野駅周辺再開発プランが発表された。超高層ビルを中心とする新たなる、ショッピング商業ゾーン開発計画である。
徹路は、何ともやるせない気分になった。
最近の近鉄のやっている事は、何か首をかしげたくなることが多いと感じていたが、何で今更、阿倍野ターミナルの再開発なのか…。
たった20年前、大阪きっての規模のデパートとして開店したばかりの阿倍野本店が、建物寿命をまたずして取り壊され、数十階建ての高層ビル群に生まれ変わる等、理解できない。


”どうして…、あの時、事業本部長の私がやったことはいったい何だったんだ…。”


確かにこの間、関西新空港が開港し、現在は滑走路2本を持つ国内初の24時間空港として運用されているし、西側の赤十字病院跡地の再開発で天王寺・阿倍野界隈の昼間人口は増えてきた。JR天王寺駅にも天王寺ミオが開店し、近鉄阿倍野店のインパクトは薄れてきたかも知れない。


しかし、今ある建物をぶち壊してまでリニューアルする必然性はいったい何処にあるというのか…。


徹路には、近鉄のやっていることはホリエモン紛いの、地上げによる資産価値の操作と株価操作で資産総額の増大を狙っているようにしか写らないのであった。


どうひいき目に見ても、近鉄が単独でいくら頑張っても”キタ”や、”ミナミ”と肩を並べる大繁華街が阿倍野界隈に出現するとは思えない。


難波線の開業で、ターミナルとしての機能を失い、自滅してしまった上本町界隈に見切りを付ける事には諸手を打って賛成するが、ナンバに進出し遅れたからと言って、”今更天王寺・阿倍野界隈を担ぐ事は無いでしょう”というのが徹路の感想であった。


<続く>
[2008/03/23 19:09] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第63話  

第63話 徹路と日本の20世紀を代表する土木工事


土木学会の取材に来た業界紙の記者に20世紀を代表する土木工事について質問されたことがあった。
その時、徹路は以下の4つを取り上げた。


1961年(昭和36年)3月近鉄で言うと中川短絡線が完成名阪ノンストップ特急の運行が開始された同月23日北海道吉岡で斜坑の掘削が開始され、1971年(昭和46年)11月27日に本抗の起工式が行われ、1985年3月10日14年の歳月をかけ貫通した青函隧道 青函海峡トンネル。


1988年(昭和63年)5月2着工され1998年(平成10年)4月5日完成した明石海峡大橋。

1978年(昭和53年)10月10日坂出市で起工式が行われ11月に着工され、9年6ヶ月の歳月を費やし1988年(昭和63)年4月10日開通した瀬戸大橋群。

1987年(昭和62年)7月着工、1997年(平成9年)12月18日開通の東京湾横断道路 東京湾アクアライン。


これらの工事は20世紀を代表する日本の土木工事だと徹路は思っている。勿論全国に伸びた、高速道路網と新幹線網も一つの事業だと考えれば日本の20世紀を代表する日本のビッグプロジェクトには違いない。しかし徹路にとっては、この4つが一番記憶に残る土木工事だと考えている。


鉄道技術者としては、鉄道・道路併用橋として建設され、将来は新幹線2線の増設も計画されている瀬戸大橋に魅力を感じないこともない。


しかし何と言っても、ほぼ10年の歳月を費やし、工事中に襲った阪神淡路大震災にも耐え、立派に完成した明石海峡大橋は、久しぶりに徹路に血湧き肉躍る間隔を蘇らせた。各地で開かれる土木学会の会合でこれら4つの現場には何度も訪れたが、明石海峡大橋だけは訪れる度に徹路の胸を打った。青函トンネルや東京湾アクアラインは、難工事には違いないが、やろうと思えば徹路でも完成させた自身はあるし、鉄道屋としては瀬戸大橋群にも惹かれるがそのどれよりも明石海峡大橋は徹路を奮起させる魅力があった。おおむね㎝単位の土木工事にあって1/100ミリ単位の高精度、そしてその規模。徹路があと40才若ければ間違いなく近鉄をやめてでも、この橋の建設工事に飛び込んだであろう。それぐらい惚れ込んで要る建造物である。


徹路はその明石海峡大橋によくブラっと出かけた。
未來の子供が小さかった頃は子供の手を引いてよく出かけた。
車の運転を出来ない徹路は、近鉄、地下鉄、阪神、山電と乗り継ぎ明石まで行き、ご存知”タコフェリー”で橋の下をくぐり下から眺めるのが好きであった。
往復数十分の船旅を孫と楽しみ、明石名物”明石焼き”を食べ帰ってくるのである。
短い船旅の間に、若い頃経験した、土木現場を思い出し、あとは時の流れを、のんびりと楽しむのであった。



<続く>
[2008/03/21 22:05] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第62話  

第62話 阪神なんば線の着工


2001年(平成13年)5月 徹路は、久しぶりに現場に出向いて、監督をしていた。
元請けの建設工事事務所から、使いが遣ってきた。


『徹路さん、大変ですよ、国分社長がお見えで、”布施さんに用がある、取り次いでくれ”って仰有ってます。』
『さて、この老いぼれに何の用だろう、今すぐ行くと伝えてください。』
『じゃ、先に帰ってそう言っときます。』
徹路は、杖をつきながら、事務所に向かった。現場事務所では国分が待ちわびているように、時計を気にしながら立って、こちらを伺っていた。そして、徹路の方に歩み寄ってきた。
『社長、どうなさったんですか、婿がへまでもやらかしましたか。』
『徹路さんおめでとう、遂にきますよ』
『ナニガですか?』
『阪神ですよ、』
『阪神?』
『今朝ほど、阪神電鉄から知らせが入って、難波乗り入れが決まったそうです。』
『それは、前から…』
『そうじゃなくて、やっと地元と話がついて、着工が具体化したんですよ。』
『本当ですか?』
『今度は、市、と府も後押ししてくれて、3セクの形で参加してくれるようです』
『それはよかった、で開通はいつ頃に?』
『2009年の春、開通予定らしいです』
『そうですか…』
『一刻も早く徹路さんに知らせようと思って、出かけるついでに立ち寄ったんですよ。』
『それは、どうもわざわざありがとうございました。』
『社長、そろそろお時間ですが…』


運転手が声をかけた。


『うん…、判った』
『徹路さんホントにおめでとう、ジャ、私はコレで、』
『国分さん、ありがとうございました。』


国分は、両手で、徹路の両の手を包み込むように握って別れを告げ立ち去った。
徹路は、深々と礼をしながら国分の車を見送った。


その後7月に建設母体の西大阪高速鉄道が設立され、その後、大阪市、大阪府が議会の承認を待って9月にそろって出資参加、第三セクターとして正式スタートした。
2001年(平成13年)11月16日西大阪高速鉄道、阪神電鉄そろって、事業特許を取得。翌々2003年(平成15年)1月23日工事施工認可が下りた。
そして同年10月7日阪神なんば線工事が着工された。


この日徹路は芦屋にある、故西宮鉄郎の自宅を訪ね、鉄郎の霊前に工事の着工を報告した。


『鉄郎さん、今日はいい知らせを持って来たよ。 鉄郎さんの、いや僕たちの夢だった、阪神、近鉄連絡鉄道がやっと着工されたよ。鉄郎さんが僕に約束してくれたとおりになるんだ。平成21年春の完成予定だからあと5年半ぐらいで僕たちの夢が叶うよ。…ああそれから
阪神タイガースが9月15日にリーグ優勝したよ、鉄郎さんはもう知っているよね、18年ぶりだそうだね、重ねておめでとう。私は、なんば線の開通を見届けるまではまだまだこっちでがんばるよ。それじゃまた来るからね』


<続く>


[2008/03/20 17:13] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第61話  

第61話 徹路の苦悩


徹路は寮に残っていた6人一人一人に頭を下げて回った。
彼らは、徹路が近鉄の現場で監督をしていた頃からの長いつき合いで、何れも60才以上の高齢者だった。復員兵で戦後近鉄の復興期から、一緒に現場で苦楽を共にした仲間も居る。彼らは、鉄路の旗揚げを知り全国から集まってきてくれた人たちである。


『亀さん済まない、私の力がいたらなくて』
『イヤ良いんだヨ、俺れもこの辺りが引け時きかと思っていたんだ。』
『申し訳ない…』
『手を上げてくれ、徹路さんのおかげで、年金も貰えるようになったし、田舎にでも帰ってのんびり暮らすことにするよ』
『亀さん…』


『建さん申し訳ない』
『そうだよ、ひどいよ出てけなんて』
『ほんとに済まない』
『俺はまだまだ働けるんだから…徹路さんも知ってるだろ?』
『ああ、よく判ってる、…』
『だったら、…』
『建さん、許してくれ、会社が…』
『会社って、徹路さんの会社じゃないか?』
『金造君に社長を譲ったモンだから…』
『ジャー、金造が首にしろって言ってるのか?』
『イヤ、金造も辛いんだが、会社が左前に成ってしまって居るんだ』
『左前?』
『気楽に考えていた、ワシが悪いんだ許してくれ』
『…まあ徹路さんにそう言われたら仕方無いけど、俺はまだまだ若いモンなんかに負けないくらい働けるんだけどな…』
『済まない…』
その若い連中から、名指しで役立たず呼ばわりされている事など本人に言えなかった。



『作治さん、済まない』
『金造さんから聞いてるで、』
『聞いててくれたか、済まない』
『まあエエがな、徹路さんとは、あちこちの現場で楽しゅうでけたし、もおええ思い残すこともないわ』
『思い残すことだなんて、作治さん』
『徹路さんのおかげで、小銭も貯まったし、どっか養老院にでも行くは』
『養老院だなんて、作治さん』
『若いモンから役立たず呼ばわりされてることもしっとった』
『…』
『実は、肝臓悪しとって、最近めっきり身体が言うこと聞かんようになっとんたや』
『最後になって、徹路さんに心配懸けてもうたは、堪忍してや』
『作治さん、謝らなけりゃいけないのは、こっちのほうだよ』
『徹路はん、かまいんネン、気い使わんといて』
『俺で、出来ることがあったら何時でも要ってきてくれ』
『そやな、葬式の時に弔辞でも頼むハ、ワ、ハ、ハ、…』



ただ1人74才になる、山田耕筰だけは、身よりもなく、元気で働ける内は、徹路と一緒に近鉄の仕事をしたいと言うので。


バブルの時に作った、鉄路警備に移ってもらい、ガードマンとして残って貰うことにし、徹路が保証人になって数少なくなった近所の文化住宅を借り、住まわせることにした。


<続く>

[2008/03/20 12:51] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第60話  

第60話 タヌキ親爺(資材部長)との攻防


5月に入って金造にアポを取らせ、近鉄資材部を表敬訪問した。


資材部にいり接客カウンターでしばらく待つと担当の谷村主任を伴って篠田部長が現れ直々に出迎えてくれた。


『布施さんお久しぶりです、ようこそいらっしゃいました。』
『ご無沙汰しております篠田さん』
『部屋を用意させています、まあこちらに』
『有り難う御座います。』
金造と徹路は応接室に案内された。
『紹介しましょう、お宅の担当をしている谷村君です』
『谷村ともうしますヨロシクお願いします』
『布施です、いつもお世話になっております』
『堅苦しい挨拶はさておいて、まあおかけ下さい』
『有り難う御座います。』
『ご御大自らわざわざ足をお運びいただいて恐縮です』
『こちらこそ永らくご無沙汰しておりまして、』
『どうです、久しぶりの近鉄本社は?』
『ずいぶんと変わりましたね』
『いや、開かれた近鉄をイメージして、改装したんですよ』
『ハー、そうですか』
『ここんところ、ズーと景気が悪くてね、暗い話題ばかりなんで、”チャレンジする近鉄、開かれた近鉄。”を目指してイメージを一新しようと思いましてね』
『それは結構なことですね』
『鉄路さんにはいつも大変お世話になっていて、感謝いたしております』
『いや、とんでもないこちらこそお世話になっておりまして。』
『実は、いらっしゃると聞きまして、丁度良かったと、それがお願いしたい件がありまして、』
『お願いと申しますと?』
『本来なら、こちらから出向いてお願いに上がらなければ成らない件かも知れないのですが。』
『いや、わざわざお出ましいただかなくても』
『いや、恐縮です、それが見積もりの件なんですが』
『見積もり?、金造君、近鉄さんから引き合いを戴いているのか?』
『はい、5件ほど』
『なら、早く言いなさい!、お忙しいところ、部長にお時間を戴いたのだから』
『イイエ、その件はお伝えしていなかったんで…。』
『はあ、何か、特別な事でも…』
『実は、提示いただいている金額が』
『個々の案件については金造君に任せている物で、細かいことは…、』
『イイエ、個別の件はわたしも谷村君に任せている物で判らないのですが、時節柄、実行予算を厳しく締め付けられている物で!』
『ハア…』
『実は言いにくいのですが、今後はお見積もりいただいた金額の30%は無条件にカットさせていただき、その上でそこから更に交渉させて戴くと言うことにさせていただきたいのですが』
『無条件に、3割カット!そこから更に値引き?部長、それじゃヤッテけませんよ!』
『そこを何とか、この通りです、なにとぞ一つご協力をお願いします。』


篠田は応接机に、手をついて、徹路に懇願した。


『部長、手をお上げ下さい。』
『…。』
『判りました、その件は社に持ち帰り、検討させていただきますから、どうぞ手をお上げ下さい。』
『そうですか、承知いただけますか、有り難う御座います。』
『いや、検討すると申しただけで…』
『それじゃこの件はお終いにして、ひさしぶりにお会いしたのだから、今日はゆっくりしていって下さい、あとで社内をご案内しましょう』
『イイエ、部長こそお忙しいのに』
『とんでもない、後御大がお見えに成ったんだから、歓待しなくては。ああ谷村君、君は石部社長とお話があったんだろう、ご御大は私がお相手しておくから、君たちは席を外して商談室にいってくれてかまわないよ。』


篠田部長は、部下の谷村に目くばせをし、金造を連れ出させた。


『所で、お孫さんもずいぶん大きく成られたそうで』
『ハイ、長女のところが19才で大学に通っています、金造のとこが長女が18で長男が16です』
『そうですか、もうそんなに成られましたか、我々も年行くわけだハ、ハ、ハ…』


お願いに行ったつもりが信太のキツネならぬ阿波のタヌキ親爺にまんまと一杯食わされ、返り討ちに遭い、すごと引き返す羽目になってしまった。


<続く>
[2008/03/19 21:20] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第59話  

第59話 金造の反旗その2


金三が話を続けた。


『お父さん済みません。でも未來の言ってるとおりなんです、うちの会社は火の車なんですよ』
『何だって、火の車?どうして何だ、そんなこと無いだろ!近鉄さんから直の仕事を貰っていて!』
『それが、問題なんです』
『どういう事だ?』
『最近、資材交渉が厳しくて。近鉄社内で大幅な予算カットを要求されているとかで、”どちら様にもかかわらず、見積もりから3割値引きでお願いします”。とこうです』


『なんだって?ソンナじゃヤッテけないじゃないか!そんな仕事断ればいいじゃないか!?』
『ところが、”大手のゼネコンが何処も引き受けてくれないので、鉄路さん是非お願いします!”って言われて』
『お父さん、うちが何とかやって行けているのは、ゼネコンさんがくれる下請け仕事と、お父さんが手を引いた”鉄路建設”さんがくれる仕事のおかげなんですよ!』


『鉄路建設の下請け仕事?』
『鉄路建設さんが仕事をくれなかったら、家なんかとっくにつぶれてますよ!』
『そんなにひどいのか?』
『だから、今度の話も、鉄路建設さんが、うちの窮状を察して持ちかけてくれたんですよ!』
『そうだったのか…』
『受注金額が落ちているのに、お父さんが、駄目だと言うから、アウトソーシングも使えないし』
『アウトソーシング、あんなもの昔の手配師じゃないか!』
『でも何処でも、人件費を落とすため、アウトソーシングで必要人工の波を吸収して要るんですよ。お父さんが社員でまかなえって言う物だから、常時必要な人員より多い社員抱え込んで、仕方ないから資材置き場の整理や現場で雑用させたり、挙げ句のはては談話室で待機させたり、よその会社より人件費が掛かりすぎてるんですよ!』


『…』
『僕も辛いですが、もうどうにもヤッテけません、今回はワガママを通させていただきます。』
『社長を譲ったんだから、好きなようにしたらいいじゃないか…、でも風呂だけは置いといてくれ、それともう少し待ってくれ、ワシが一度近鉄に行って話してみる、今の資材部長は確か篠田君だったな?』
『ハイそうです』
『篠田君なら、彼が徳島から出てきて近鉄に入った当時からの古いつき合いだ、話せば判ってくれるかも知れない』
『ハイ…』


徹路は、時代の流れというか、自分の時代は過ぎ去ったというか、何とも言いようのない、やりきれない気持ちになった。

|<続く>
[2008/03/18 19:12] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第58話  

第58話 金造の反旗その1


1996年(平成8年)4月のある日、金造が娘未來を伴って徹路の居る技術開発室に入ってきた。


『お父さん相談が有るんですが』
『何だ金造君』
『実は鉄路建設さんが、この本社ビルの3、4階をまとめて借りたいと言ってきたんですが』
『何のために?』
『バブル後にリストラした会社も順調に業績が回復し、布施駅前の貸しビルでは手狭になって、技術部の移転先を探していたそうなんです』
『で…?』
『家の本社ビルだったら、隣に広い駐車場もあるし丁度良いから、どうかと言うんです』
『そうか…、でも3階4階はに使って要るんだぞ』
『ハイ判ってます。実はその件なんですが』
『どうした?』
『実はいいにくいんですが、は廃止して、賃貸のワンルームマンションに改築しようと思っていて、鉄路建設さんに相談したんです』
『何!』
『怒らないで聞いてください、今残った40部屋ぐらいのうち常時使っているのは6部屋だけなんです』
『それぐらい知ってる』
『で今の時代、その古参6人の為だけに、掃除のおばさんを雇い、電気代や水道代、何やかんやでの維持管理費が年間にすると馬鹿にならないんです。』
『…』
『一階の食堂だって、毎月大赤字です。』
『ワシや2階の本社の連中も使ってるだろう?』


未來が口を挟んできた


『何いってんのよ、社員食堂にしては、中途半端に狭くて全員入れないし、折角来た仕出し弁当の給食屋はお父さんが追い返すし、仕方なく近所のコンビニで弁当買って済ましている人が多いのよ』
『そうだったのか』
『それで、本社の総務や技術の連中からは、”社長、あんな老人クラブみたいな食堂どうしていつまでも続けているんですか?”って不満が出て要るのよ!』
『…』
『若い人たちも怒ってるのよ、”あの老人達は、二言目には、昔はこうだった、今の若いモンは…、そのくせしてダンプ、ローダー、バックホー何一つ運転できない、現場では、雑用位しか出来ない”って。』
『それは言い過ぎだろう』
『言い過ぎなんかじゃないは、そんな人たちのために毎月大赤字出してまで、寮や食堂なんて要らないわ!』
『そんなに苦しいのか?』
『そうよ、お父さんが、どんどん要らない物を買うから』
『要らない物?』
『そうよ、軌陸車だって、お父さんが、”軌陸車も持たない鉄道屋は無い”と言って買ったけど、年に何度使ってるの?』
『…』
『うちに軌陸車があるって知ってるから、同業者がどんどん借りに来るけど、良いように利用されているだけよ!』
『何だって!』
『だってそうでしょう。タダじゃ申し訳ないからって、レンタル料を払うって言ってるのに、うちはリース屋じゃないから、そんな物受け取れないって、気前よくタダで貸して。あの車、整備費や何やらで年間いくら掛かっているのか知ってるの?』
『それは…』
『お父さんが、人の良いのにつけ込んで、よってたかって良いように利用されているのよ!』
『お前、それは言い過ぎだろう!』
『今は昔と違うのよ、建機なんかみんなリース屋さんからリースか、レンタルの時代よ、何でもかんでも自前々って、レンタルで済むような物まで買って、おかげで乗用車一台買えないじゃないの!』
『そんなこと無いだろう!トヨタのセールスが好く来ているじゃないか!』
『なにいってんのよ、お父さんが、従業員の送迎車が古くなったから9人乗りのハイエースが欲しいとか、2トンダンプが調子悪いから新車に買い換えろとか?営業車が古くなったから買い換えろとかしょっちゅう言うモンだから仕方なく呼んでるだけよ』
『…』
『お父さんが、次々に要らない物を買え買えって言う物だから、社長車を買う余裕も無いじゃないの?資材置き場を見てよ、現場で使ってないものが、山のように成ってるじゃないの!』
『…』
『姉さんとこなんて、共働きなモンだから、3台も車持ってて、姉さんはヴィッツだけど、旦那様がアウディ、息子さんにはセリカに乗らせてるのよ!、なのにうちなんか主人がゴルフ場に行くのに、10年前のマークⅡでいってんのよ!よその会社の社長さんは、セルシオや、ベンツで乗り付けて来るって言うのに、』
『お前が、言った様に、会社に新車が有るじゃないか』
『ゴルフに、4ナンバーのライトバンで行けないでしょう!』
『だったらゴルフなんかしなくても良いじゃないか?』
『そんなわけに行かないでしょう、お付き合いなんだから。お父さんが、”ワシはつき合いは苦手だから金三君頼む”ってみんなうちの人に押しつけといて。』
『ジャー行かなければいい!』
『”ジャー行かなくて良い”って、よくもまあそんなことが言えるわね!』
『未來、やめなさいもういい』
『何よ、貴方の代わりに言ってあげてるのよ!』


未來は泣き出してしまった。


<続く>

[2008/03/17 21:00] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第57話  

第57話 未來のボヤキ


1996年(平成8年)4月のとある日、由有紀の主人船守から誘いが入り金造がゴルフに出かけた。


翌日姉由有紀から、未來に電話が掛かってきた。


『お前の所も社長さんなんだから、もう少し体裁を考えたら…。お金を貯め込むばかりが能じゃ有るまいし、旦那を10年前のマークツーでゴルフ場に行かせたりして、うちの人も一緒に行った得意先のセールスに後で、”あの方が鉄路の社長さんなんですか?”って聞かれたそうよ、うちの人”どう答えたらよいか困った”って言ってたわ。』
『姉さん所は、共働きで、2人で年収1千万を楽に超えて、芦屋浜の高層分譲マンションに住んで、3台も車持ってるからそんなこといえるのよ』
『何いってんのよ、お前は父さんから会社譲って貰って、家まで建てて貰って。うちなんかマンションのローンもまだ残ってるし、仕方ないから未だに私があくせく働いてんのヨ!お前なんか社長夫人で左うちわで楽してるくせに。』
『何が社長婦人ヨ、冗談じゃないないわヨ、うちの年収いくらか知ってるの?年収1千万どころか700万もないのよ!家だって、やっとこさお父さんを説得して、会社の”寮”と言うことで立て替えたのよ!』
『そんなこと無いでしょ、社長さんでしょ? 何処で聞いても、”鉄路さんは業界でもトップクラスの給与水準で、社員は外車や、国産高級車を乗り回している”って聞いたわヨ!』
『従業員はそうでしょうけど、役員は薄給なの!』
『でも、その代わりに、会社の経費使い放題なんでしょ?家だって会社の経費で建てたって言ったじゃないの、だったら会社の社用車に外車でも買えば良いじゃないの。同じマンションの1階下に住んでる社長さん家の奥さんはそうしているって言ってたわよ』
『なにいってんのヨ、近鉄は大手ゼネコンが断る様な儲からない仕事ばかりうちにさせるし、お父さんは要らない物ばかり買うモンだから経理は火の車で、とても社長専用車なんて買う余裕なんて無いわヨ!』
『そんなこと無いでしょ、父さんは昔から浪費は嫌いで、物を大事にしていたじゃないの!』
『何時のこといってんのヨ、!』
『信じないなら、うちの枚岡の資材倉庫覗いてご覧なさいよ、要らない物が山のようになってるわヨ!』
『お前の会社の事なんだから、私はよく判からないけど、とにかくもう少し、体裁考えなさい!』
『よく判らないんだったら電話してこないでヨ!』
『姉に向かってそんなこと言うなら、もう2度と電話なんかし無いからね。(ガチャ、ツー、ツー、ツー…)』
『何よ勝手なことばかり電話してきて!』


<続く>

[2008/03/16 20:57] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第56話  

第56話 阪神大震災と鉄路

1994年(平成6年)伊勢志摩総合開発プランの目玉パルケエスパーニャ、ホテル志摩スペイン村がオープンした。
この年円高が進み再び海外旅行ブームになり、バブル崩壊後一時低迷した渡航者が回復した。
そして9月4日関西国際空港が開港した。



1995年(平成7年)1月17日早朝、阪神地区を激震が襲った、阪神淡路大震災である。長女由有紀夫婦が住む、神戸が心配だったが、由有紀夫婦が済む、六甲アイランドの高層住宅は大きく揺れたが、幸い倒れた家具の下敷きにも成らず、家族3人とも無事だった。
ただ、電話の不通状態が続き、安否が判るまで丸一日かかった。


この地震による被害は甚大で阪神電車も高架橋の橋桁が折れるなど、ズタズタにされてしまい、その後約半年間不通状態になってしまった。


早速近鉄から徹路の会社に連絡が入り、現在発注している工事が多少手薄になっても良いから被災した阪神電鉄の復旧工事に協力するよう申し入れがあった。


徹路は、翌日から金三に20名ぐらいの精鋭を集めさせ、被害調査と復旧工事の為に阪神電鉄の災害復旧本部に駆けつけた。
26年前に完成し一番被害の大きかった、石屋川車庫の有る工区の復旧工事を任された。


徹路が総指揮を執り全国から駆けつけた、土木工事のベテラン達と共に5ヶ月の短期間で完全復旧させ、阪神電鉄から、感謝状を貰った。


5月金三が土木技術者を志すきっかけとなった、本四連絡橋の一つ大三島橋が開通し、しまなみ海道が開通した。


1997年(平成9年)4月第2阪奈道路が開通した、生駒山をくりぬく第3のトンネルである、今まで阪奈間は近鉄が最短で結んでいたが、阪神高速、第2阪奈道路による自動車利用に到達時間でも敗れてしまった。


<続く>
[2008/03/16 14:31] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第55話  

第55話 徹路の社長引退


1993年(平成5年)3月28日伊勢自動車道が全通した。バブル崩壊後、レジャー熱も静まり近鉄の旅客需要も伸び悩んでいたが、伊勢道の開通は、新たなる脅威の出現でもあった。
そして9月亡き鉄郎が手がけた、阪神本線、野田ー梅田間の地下化工事が完成した。
同じ9月、志摩線の複線化事業も完工した。


徹路76才のこの年平成5年4月有限会社鉄路設立16年目にして、徹路は相談役に身を引き娘婿石部金三に社長の椅子をゆずることにした。


次女未來と同い年の金三は44才になっていた。徹路から見れば少々頼りなくも写り、事実バブル期に何度か危なっかしい場面もあったが、徹路の指導で本業に精進したおかげで、バブル崩壊後も順調に業績を伸ばし準社員を含めると100人を越す大所帯迄会社を成長させてきた。


相談役に退き社長の座を金三にゆずったとは言え、徹路は、まだまだ老いさらばえる年ではなく、長年誘いのあった、東大阪の私立大学に客員教授として週に2度ほど出向き、次世代を担う若き技術者の育成に力を貸すこととなった。


社長を外れ、雑用に患わされることも無くなったので、気兼ねなしに現場にも出向けるようになった。


社長引退を機会に手狭になった自宅にある本社を,枚岡の独身寮の2階を改築し、移転することにし、自宅は3階建ての2世帯住宅に全面的に建て直し、金三夫婦と同居することにした。


金造は、この際空き部屋も目立つようになった独身寮を閉鎖してはどうかと徹路に進言したが、毎年島根県から出かけてくる臨時工の季節労務者の為にも、そして何より、一日の仕事の終わりの、”ひとっ風呂”を楽しみにしている現場従事の労務者達の為に、絶対寮の火は消せないと突っぱねた。


そして2階を事務所に改築する変わり、今までの1階にあった、事務所を、仮眠部屋をかねた休憩・待機室に改築させた。



皮肉にも、昼間は2階本社に設けた技術開発室で文献に目を通し、客員授業の資料作りをし、合間に現場に出かけ、そして、夜は、仮眠室の一室で寝泊まりし、隣の”めしや”で独身寮の年寄り連中と食事をとる毎日が多くなり、せっかく新築したばかりの、富雄の自宅にはあまり帰らなくなってしまった。


<続く>

[2008/03/14 21:33] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第54話  

第54話 近鉄佐治会長の死


1993年(平成5年)2月近鉄佐治会長が82才で亡くなった。
奈良市内のお寺で行われた密葬には多数の著名人が駆けつけた。


佐治の死は一時代を築いた人の死であると同時に、決して金勘定だけに囚われない明治の事業家の気骨というか、明治生まれの起業家に共通した事業哲学の終焉でもあるように思われた。


新生駒トンネル、名古屋線改軌、難波線建設、新青山トンネル掘削大阪線複線化、すべて、金儲け以上の”社会事業”と”社会資産”としての必然性を感じさせる事業であった。


”ラグビーでは金にならない”と言う口実ではじめたプロ野球球団近鉄パールズも、これからの日本を担う少年達に”夢と希望”を与えたいと始めたのではないか。
事実藤井寺球場が無くなるまで、そこは春夏の全国高校野球の大阪地区予選の舞台として、数々の名勝負を生み、高校球児達の心にシッカリと刻み込まれている。


文化事業にも熱心だった彼が創設した近鉄劇場も、興行的には成功したとは言えなかったが、それまでの大阪には無かった本格的ドラマシアターとして、数多くの名作を浪花の人々に紹介し、浪花の演劇文化の発展に貢献してきた。


国分新社長を批判するわけではないが、彼が社長になってからは、創業以来脈々と培われてきた”近鉄魂”が忘れ去られ、目先の金儲けに迷走しだしたように感じるのは果たして徹路だけなのであろうか。


戦後教育を受けた国分社長の率いる現経営陣には、企業価値とは株価を含めた”総資産額の拡大”、と”徹底した経営効率の改善”の二文字しか浮かばないのではないか…とさえ思えてくる徹路であった。


日本の自然と芸術をこよなく愛した故佐治会長が、”伊勢志摩の自然を万人に、そして地域振興の為に”と行った、鳥羽線建設、志摩線の改軌事業。


彼が愛した美しい志摩半島の自然であるが、ゴルフ場の乱開発で大量に散布される農薬の2次被害により、英虞湾に赤潮が大発生、明治以来行われてきた、真珠の養殖産業に大打撃を与え、多くの養殖筏が英虞湾から姿を消してしまったとは皮肉ではある。


決して近鉄だけのせいではないが、佐治一徹が描いた姿では無かったはずである。
そして彼が会長に退いて、6年…亡くなる2年前、バブルがはじけたその年の7月、新生国分近鉄の観光路線の切り札となるはずだった志摩スペイン村が着工されたのであった。


<続く>
[2008/03/13 22:30] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第53話  

第53話 バブル崩壊


1991年(平成3年)4年間の長きにわたって続いたバブル経済が遂にはじけた。
先にも述べたとおり徹路は、世をあげてのバブル熱にも翻弄されず、本業以外のマネーゲームに手を出すこともなく堅実な経営を続けた。結果ボロ儲けもなかったが、大損もしなかった。


堅実経営のおかげで、現業の準社員を含め、いつのまにやら100人近い大所帯になっていた。


しかし1985年(昭和60年)に近鉄社長に就任した国分に頼まれ、バブル期の1987年(昭和62年)にしかたなく作った建設部門の鉄路建設株式会社はバブル崩壊で規模を縮小せざるを得なかった。


バブルに浮かれた同業者の中には、株式投資や、リゾート開発の失敗で大欠損を出して倒産を余儀なくされた会社も多く出た。


徹路のところにも、借金や、融資の保証人になって欲しいと言う申し入れが毎日のように飛び込んで
きた。


徹路は、借金に訪れた一人1人に対し、丁重に断り、お金や、名前は貸せないが、やる気があるなら、仕事は回してあげるから再建に向け頑張りなさいと勇気づけて送り返した。
中には、事務所で大声を張り上げて、怒鳴り散らしたり、泣きわめく輩もいたが、徹路に諭されて、最後は渋々帰って行った。


そんな1991年(平成3年)7月、将来に一抹の不安を抱えながらも伊勢志摩総合開発計画の目玉である志摩スペイン村が着工された。


<続く>


[2008/03/12 21:18] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第52話  

第52話 鉄郎の死


1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御なさった。
そしてこの年から年号は平成に変わった。


平成1年10月14日激しい優勝争いの末、名将仰木監督率いる近鉄バファローズが3度目のリーグ優勝を果たした。


そして、年の暮れ12月のはじめに朋友西宮鉄郎が66才でなくなった。
知らせを聞いた徹路は愕然とした。つい先日、近鉄優勝の翌日、鉄郎が徹路の会社にお祝いの電話をかけてきてくれてから、ひと月ばかりである。


最初の入院の知らせは6ヶ月前の6月だった。
鉄郎が、血を吐いて入院したと言う知らせが徹路の元に舞い込んだのである。
翌日、現場は金三にまかせ兵庫医大病院に駆けつけた。


鉄郎はばつが悪そうに、
『いやー、お恥ずかしい、ここん所仕事が忙しくて、つい…。イヤーたいしたことないんですよ、』
『心配しましたよ、お元気そうなので安心しました。』
『イヤー、医者が、”精密検査の必要があるので、2,3日入院していただきます”というもんで』
『そうですか』
『ここん所、忙しかったから、休養をかねて、仕事を休ませていただくことにしまして。』
『そうですよ、こういう機会がないとなかなか休みがとれないお体だから、この機会にごゆっくり休養なさって下さい。』
『まあ あまり”ごゆっくり”とは行かないのですが』
『そうおっしゃらずに…』
『わざわざご足労いただいて、ありがとうございました』
『倒れられた…、と聞きまして心配でしたが、安心しました。』
『嫌々恐縮です。』
『あまり永居もなんですんで、私はこの辺で。どうぞお大事に。』『ヤー、どうもありがとうございます。』


結局、肺ガンと判明、片方の肺を摘出する大手術をし3ヶ月ほど入院していたが退院して、現場復帰した。


退院後、徹路に見舞いのお礼をかねて、電話があり、
”まだ全服しておらず、前のように無理は利かない身体になってしまったが、何とか日常の業務はこなしているので、ご心配なく”
と言った内容の話であった。


それから、2ヶ月ちょっと、
”身体の調子がよくないので、また入院してきますが 大事をとるだけでたいしたことないのでお気づかいないように”
と言う内容の電話が本人からあり、徹路も今度はすぐにはお見舞いには訪れなかった。
それから1週間足らず、鉄郎は帰らぬ人となってしまった。


混乱を避けるため芦屋にある自宅近くのお寺で密葬が行われ、後日社葬が行われることとなった。
密葬に訪れた、徹路に、家族から、6月の検査の段階で、ガンが全身に転移していることが判明していたが、本人には知らせず、肺の摘出手術を行ったこと。本人は最後まで、ガンは完治したと信じていたことなどを聞かされた。


そして死の直前まで、
『俺はまだ死ねない、徹路さんとの約束をまだ果たしていない俺が社長でいる間に、なんば線を完成させないと…』
と言っていたと、この時聞かされた。


66才あまりにも若すぎる死であった。


<続く>
[2008/03/11 22:16] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第51話  

第51話 徹路の戒め


1987年(昭和62年)前年の年末から起こった、バブル景気で世の中はわいていた。


株式はもちろん、マンション、別荘地などの不動産、やゴルフ場の会員権などがどんどん高騰、猫も杓子も、投資熱に犯され出していた。


4月に国鉄が解体され、JR各社が誕生したのもこの年だった。


12月に、4年の歳月をかけた大工事、南大阪線の針中野ー阿倍野橋間の連続立体交差事業が完成した。


翌1988年(昭和63年)年3月近鉄の期待を担って、名阪間にアーバンライナーが登場した。
同じ月、近畿自動車道吹田ー松原間が全通した。


8月には京都市営地下鉄烏丸線との相互乗り入れ工事が完成。
11月には近鉄あべの橋ターミナルビルが完成した。


この頃、娘未來は本社にやって来る度に、
『○○建設の社長さんとこは、毎週末にベンツに乗って、別荘に行ってるって話よ、うちは未だにカローラ、ご近所で小学校の送り迎えに、歩いて行ってるのは家だけよ』
などと、話しかけてきたがいつも徹路は聞いて聞かぬ振りを決め込んで無視していた。


そんなバブルの最中、娘婿の金三が、相談があるといって、娘を連れ立って本社にやってきた。
近鉄協力会の会合で知り合った、同じ土建屋仲間の社長が、


『儲け話があるので一口乗らないか』と言ってきたというのだ。
何でも手広く事業展開している会社でゴルフ場を3ヶ所経営しているのだが、ブームに載って大繁盛で、会員募集した途端に、会員権が完売、勢いに乗って、さらに2ヶ所増やす計画を進行中で、徹路の有限会社鉄路にも一口乗らないか?と言う話らしい。”金は銀行が融資してくれるから、発起人に名を連ねるだけで、大儲け間違いなし”と言っているというのだった。


徹路はひとしきり彼らの話を聞いて、強く戒めた。


『話があると言うから、家でも建てる気になったかと思ったら何事だ!わしはその話には乗らん!』
娘がすかさず、
『どうしてなの、うちの子が通っている小学校でもご一緒しているし、家族ぐるみでお付き合いさせていただいていて、若いけど大変立派な社長さんで、あの社長さんのススメなら絶対に大丈夫だと思うのに』
『うちは、土建屋だゴルフ場を建設に参加しないか?ならまだしも、ゴルフ場を一緒にやらないか?など言語道断の話だ。』
『…』
『金三君、君は金儲けがしたくて、近鉄をやめて私のところにきたのか?』
『そういうわけでは…』
『それなら、バカな話はコレまでだ、顔を洗って出直してきなさい!』
『お父さん…』
『なんだ、話は聞いた。まだご託を並べるつもりか?とっとと帰りなさい!』
『お父さん、何もそんな言い方しなくても…』
『お父さんどうも申し訳ありませんでした』
『アナタ…』


そうでなくとも、普段から、どこでかぎつけたのか、やれ、”リゾートマンションはいかがですか?、宅地はどうですか?、我が社で株式投資をなさいませんか?”等とひっきりなしに電話や、訪問セールスが遣ってきて癖癖としているところだった。


まさに”金三、お前もか?”のタイミングではあった。
4階建ての独身寮兼事務所を銀行から融資を受け建設したばかりである、徹路には本業以外に投資する気などサラサラなかった。


<続く>
[2008/03/10 21:02] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第50話  

第50話 徹路の考える人の使い方。


徹路は彼を慕って集まってくれた工夫達を大事にした。
それだけに、金の貸し借りについては厳しく戒めた。
特に、前借り、借金の類は一切拒否することにしていた。
その代わり、賃金の日払いには応じてやっていた。


最近は土木従事者もサラリーマン化し、毎朝、ランチジャー片手に、マイカーで通勤してくる風景も珍しくはない。
しかし徹路が会社を始めた1970年代は、全国の土木現場を渡り歩き、着の身着のままな一人暮らしをしているベテラン労務者が多かった。
彼らは、山谷や釜ヶ崎のドヤ街に住み、職にあぶれているときは、飲酒と博打に明け暮れる生活を送っていた。


そんな彼らに、安定した生活を送らせるため、徹路は1987年(昭和62年)有限会社鉄路 創立10周年を記念して、枚岡にある資材置き場に隣接して立派な独身寮を建設した。
10人ぐらいが一度に入れる大きな浴室と、社員食堂を兼ねた”めしや”を備えた鉄骨ALC構造の4階建ての建物で、一階の一部を工務部の事務所にした。


共同トイレ、共同洗面の場風の作りではあるが、各部屋は押し入れ付きの4畳半一間の個室であった。


ドヤ街の蚕棚風ベッドの相部屋とは違い、プライバシー”が保てる個室にはテレビやチョットした家具も置けるし、遠く離れた家族に手紙を書いたり、読書を楽しんだり出来るプライベートタイムがもて、雑居による精神的ストレスが原因と思われる喧嘩も目立って少なくなった。


直営”めしや”では従業員用の定食の”めし”はおかわりし放題とし、一般食堂でもあるから夜はアルコール類の取り扱いも許した。


当時は建設会社に準社員として入社しても、酒と博打におぼれる生活で、前借りを繰り返し、”トンズラ”という者も珍しくなかった時代である。
そんな彼らに職人のプライドを持たせ、その日暮らしの生活を改めさせ、人並みの安定した生活が送れるようにと配慮してのことだった。


最初は気ままなドヤ街暮らしに慣れきっていた、年配の労務者達も、次第にの生活に慣れ、僅かづつではあるが、貯金をする者も現れてきた。


建設当初は、60部屋ある寮が季節労務者の受け入れなどで満室に成ることも珍しく無いほど賑わいを見せた。


何時しか時代は移り変わり、世の中は共同トイレの安アパートからトイレ・風呂付きのコーポ建築が貧乏長屋の標準に代わり、若い世代は堅実に給与から天引きで積み立て預金をし、家庭を持ち寮を出て行って愛妻弁当片手に通って来る者が多くを占めるようになってきた。


一日の仕事を終え、寮の風呂場で汗を流し、食堂で、その日有ったことをネタに気の知れた仲間と夜遅くまでわいわいがやがや、一杯やる時代は遠ざかっていた。


<続く>
[2008/03/09 18:30] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第49話  

第49話 国分新社長誕生


1985年(昭和60年)5月近鉄に新社長が誕生した、若干45才の若さであの国分太郎が近鉄本社の社長に就任したのである。


彼は、近鉄グループ各社を渡り歩き、行く先々で、斬新なアイデアと実行力と勘の良さで、高度成長期を通じて、グループ各社の飛躍的な躍進に貢献した。元々生まれ育ちの良い彼は財界に多くのパイプを築き、45才の若さで、押しも押されもしない関西財界の実力者になっていた。
その彼が、徹路の前に近鉄本社の社長となって帰ってきたのである。


有限会社鉄路設立以来8年間、発展を見守ってくれ、後ろ盾になってくれた、佐治社長は会長に退くことになった。


徹路は早速本社に表敬訪問に出かけた。上本町にある近鉄本社ビルには、多くの取引先が面会を求めて駆けつけていた。


2時間待って、分刻みのスケジュールで、挨拶回りをしている、国分新社長にお目通りが敵った。


『国分社長おめでとう御座います。』
『布施さん、お久しぶりです、わざわざお越しいただいて有り難う御座います。』
『こちらこそ、お忙しいのに、お時間戴いて有り難う御座います。』
『わざわざお越しいただいたのに、ゆっくりお話も出来なくて申し訳ありません本部長』
『イヤですよ、私はもう近鉄の人間ではありませよ社長』
『…そうでしたね、いや私の中では布施さんは何時までも本部長ですから』
『有り難う御座います、社長から有り難い励ましのお言葉を戴いて、これからも近鉄さんの為に頑張らせていただきます。』
『こちらこそヨロシクお願いいたします。』
『社長、もうお時間が…』
『判った』
『布施さん申し訳ありません、ご覧の有りさまで、又何れ私のほうから、ご挨拶にお伺いいたします。』
『とんでもない、私の方こそお時間拝借しまして有り難う御座いました、失礼いたします。』
『わざわざお越しいただき有り難う御座いました。』


社長室を出た徹路は、帰りに、佐治会長の部屋にも立ち寄らせて貰った。秘書に案内され会長室に入った。


『ご無沙汰いたしております、布施で御座います。』
『久しぶりだね布施君、よく来た、まあ掛けたまえ』
『有り難う御座います』
『重役就任を断って、作った”鉄路”はどうかね?』
『有り難う御座います。おかげさまで沢山お仕事を戴いて、社員一同喜んでおります。』
『そうか、それは良かった』
会長は満面に笑みを浮かべながら、しばし徹路と昔話にふけった。
帰り際、に”これからも、国分君のことを宜しく頼む”と言われ
自ら会長室のドアを開けて見送ってくれた。
思えば、これが会長とゆっくり話を出来た最後の機会であった。


<続く>
[2008/03/09 17:08] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第48話  

第48話 徹路とJV


1985年(昭和60年)バブル経済が訪れる2年ほど前。
戸田ー伏屋間の立体交差事業を大手ゼネコンとジョイントベンチャーを組んで施工することとなった。そして鉄路が幹事会社となり施工監理を一手に引き受けることとなった。


徹路は張り切った、創業以来苦節8年初めて、の大仕事である。
精鋭部隊を集め、毎日、現場を見て回った。
そんなある日、JVを組んでいる大手ゼネコンの橋脚の型枠工事現場で、スペーサーを入れずに組んだ型枠が、鉄筋に接触しているのを発見した。
徹路は早速現場で作業をしていた型枠工に注意した。


『君、チョット君』
『うるさいオッサンやナ、キミキミって、ワイはタマゴの黄身やないで!』
『そうか、済まなかった。』
『何やネン、忙しいんや、用があるならハヨ言えや!』
『作業中済まない、だが、何故スペーサーを入れずに型枠を組んだのかね』
『スペーサー?』
『ほら、これだよ』
徹路はポケットから、偶々持っていたスペーサーを出して見せた。『ああ、スキーのストックについてるアレかいな?』
『ストックについているのとは違うが、こうヤッテ、鉄筋にはめて鉄筋が型枠に直接当たらないようにするための物だ。』
『エー、そんなモンあるんかいな?』
『そんなモンって、君ん所では使ってないのか?』
『そんなモン初めて見たわ!』
『施工手順書で使うことになってるだろう!』
『そんなモンシラン、用が終わったらサッサト行ってや!邪魔や邪魔や』
『君たちこそ、作業を中断したまえ』
『何処の何奴か知らんけど何言うとんネン、サッサトあっち行けや!』


徹路は、現場監督の元に駆けつけ工事を中断させ、手順書を遵守するように注意した後工事事務所に帰り建設所長をしている大手ゼネコンの社員に抗議した。
小一時間もしない内に、旧知の大手ゼネコンの工務部長が現場にやってきた。


『布施さん、困りますね』
『部長、どうかなさいましたか?』
『どうもこうも、布施さん一つお手柔らかにお願いしますよ。』
『何の事ですか?』
『今朝方の件ですよ』
『今朝方?』
『現場所長をしている、うちの若い者から電話があって、布施さんが大張り切りで、下請けを叱るものだから、下請けが現場を引き上げるって大騒ぎに成ってしまったらしいんですよ』
『引き上げる?』
『そうですよ、元請けでもないのに、偉そうなこと言う爺さんの居る現場なんかで働けるかって、』
『偉そうなこという爺さんって?』
『いや、失礼、とにかく大変な剣幕で、やっと宥めた所なんですよ』
『私は、間違ったことは言ってないつもりだったんだが、ご迷惑をおかけして申し訳ない』
『私も、長いお付き合いだし、布施さんが良かれと思ってなさったことだとは思ういますが、今後は一つ穏便にお願いしますよ。』
『へ、見て見ぬふりをせよとおっしゃるので?』
『そう言う訳ではないのですが、鉄路さんだけじゃなくて、色んな会社が入ってるモンで、そこん所を一つ宜しくと申し上げているわけで。』
『納得いきませんな…』
『そうでしょうが布施さんとは永いお付き合いでもあるし、鉄路さんには、この現場だけでなく今後も色々お願いしたいと思っていますし、私の立場も有りますので、その辺の所を考慮いただいて、一つご配慮いただけないでしょうか?と申し上げているので…』
『…判りました部長がそうおっしゃるのなら、今後は差し出がましい事は控える事にしましょう。』



徹路は、改めて世知辛い世の中に成ってきた物だと痛感すると共に、昔自分が現場で指揮を執っていた頃の、あの頃の近鉄が懐かしく思い出された。
これ以来、JVの話は一切引き受けないように成った。


<続く>
[2008/03/02 21:43] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)





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