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【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第40話  

第40話 鉄道マンと時代の流れ


翌1975年(昭和50年)3月山陽新幹線 岡山ー博多間が開通。1972年(昭和47年)の岡山までの暫定開業から3年山陽新幹線が全通した。


この年5月阪神国道線が廃線となった。


珍しく、鉄朗から電話があった。


『徹路さん、ニュースでご覧になったかも知れませんが、国道線が廃線に成りました。』
『ハイ、ニュースで見ました。』
『何となく寂しくなって、電話しました済みません』
『いえ、良いんですよ気になさらなくて。』
『有り難う、私は、子供の頃、阪神国道沿いに住んでまして』
『ハイ、存じてます。』
『ああ前にお話ししましたね』
『はい』
『それで、野球小僧だった僕は、この電車に乗ればあの甲子園に行けるんだ、といつも…』
『判ります』
『その電車が今日で…、何だか僕らの時代が終わったような気持ちになって。』
『終わったんじゃありませんよ、これから始まるんですよ鉄朗さんイヤ、西宮社長』


この年52才になった西宮は、若くして、阪神電鉄の社長に上り詰めていた。


『そうですね、徹路さん、』
『僕たちには、まだまだこれからやることが有るじゃないですか。』
『そうですね、有り難う徹路さん、徹路さんとお話しできて良かった、何だか気が晴れましたよ』
『お互い忙しくなってしまったけれど、又ゆっくり何処かでお会いしましょう。』
『そうですね、有り難う徹路さん』
『それじゃーこの辺で』
『有り難う御座いました失礼します。』


この年10月には伊勢自動車道、関JCTー久居IC間が開通、大阪、名古屋両方面から、”お伊勢さん”は一層身近になっていた。マイカーが近鉄を突きだしたのである。


そして11月23日着工以来3年と3ヶ月ぶりに新青山トンネルが完成、この日から大阪線全線で複線運転が開始された。


そして暮れも押し詰まった12月20日鳥羽線全線複線化工事が完成した。これに先立つ9月、上本町ー布施間は複々線完成以来の、路線別運転を改め方向別複々線と成っていた。


<続く>
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[2008/01/30 22:31] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第39話  

第39話 長女由有紀の結婚


この年1973年(昭和48年)は近鉄にとっても良い1年であった。


先に述べた、上本町ターミナルビルの全館完成に続き10月には名古屋線四日市駅周辺の連続立体交差事業も完成、大阪線の複線化工事も着々と進んできていた。この年10月11日JALが国内線にB747SRジャンボ機を投入、国内線の大量輸送時代が幕を開けた。


そして翌1974年(昭和49年)5月長女由有紀が4才年上の船守健(ふなもりたけし)と結婚した。


喪明けのその年の正月、娘たちは小学校からの習慣で吉野の実家に行っていた、徹路も年末年始恒例の昼夜運転の緊急に備え徹夜で待機した後、元旦のお昼頃実家に戻ったが、既に長女は用がが有るからと、神戸の独身寮に帰ったと言うことだった。


母寿美が亡くなって、お節など期待していなかったが、実家の近所に住んでいる妹幸子に教えて貰って、娘達2人で力を合わせて作ったという。


この年82才を迎える父庄一はまだかくしゃくとしており、流石に、80を過ぎてからは、危険な伐採の仕事はやっていないらしいが、山の手入れには毎日通っていると言う。そんな年老いた父を気遣って、妹幸子は


『私んとこは、舅も姑も亡くなってるし、子供も全部独立して都会に出たんで、私たち夫婦と一緒に住もうよ』と言ってくれたそうだが、
『まだまだ娘の世話何ぞにはなりたくない』
と実家に1人で住んでいると言う。徹路もかねてから、責任を感じ『富雄で僕たち家族と暮らそう』と言っているのだが、
『俺は、木樵だ山から離れては活きていけない』と言って、1人暮らしを続けているのだった。


そんなこんなで、その年の正月は長女由有紀とすれ違いで会えなかった。


その娘から3月に成って突然、”21日木曜の祭日に富雄に帰ります、お父さんに合わせたい人がいるので家にいてほしい”と電話がかかってきた。


そして21日に船守という青年を連れて帰ってきた。眼鏡のよく似合うその青年は、なかなかの好青年で、聞けば同じ神戸大学の先輩で、徳島から出てきて幸子と同じ独身寮に住んでいて、知り合いになったという、海洋部造船技術課の主任設計技師だという。それで先輩の紹介かと思っていたら、いきなり。


『お父さん、実は娘さんの由有紀さんを戴きたくて、参りました。』ボーイフレンドの紹介にしては些かにおうと思ってはいたが。
いきなり、切り出されたので少々驚くと。
『…』
『是非、この私に、娘さんの将来を託してみてください。ヨロシクお願いします。』
見れば、額に汗をかきながらの熱弁であった。
勢いに押されて、オーケーを出してしまった。


それから後は、それまで黙っていた娘が一転してしゃべり出し、
”結婚式は、2人きりでハワイで挙げてくる。新居は会社の社宅を手配してある。私も仕事がおもしろくなってきたところなので、当分は共働きで頑張る等”と、演説しまくった。


いくら、不仲だとは言え、娘の結婚式位は盛大にやってやりたいと思っていたが、見事カウンターパンチを浴びてしまった。


一度言いだしたら聞かない性格はよく知っているので、聞くだけ聞いてその場は何も言わず、お引き取りいただいた。
後日、電話で


『この前は、良いと言ったが、向こうのご両親は了解済みなのか』
『勿論、健さんがOKを取っているわよ』
『向こうのお宅に伺わなくて良いのか?』
『帰ってきたら、ささやかなパーティーを開くからその時に紹介するわ』
『いくら何でも、そんなので良いのか?』
『健さんが、それで良いと言ってるわ』
『金は大丈夫七日?』
『お金のことなら心配しないで、それぐらいの蓄えは有ります。』
『そうか、判った、…だがなんか有ったら、言ってこいよ』
『有り難うお父さん。ワガママ言ってゴメンナサイ』
『そうか、じゃー』
『私きっと幸せになるからね、心配しないでね、お父さん。又電話するは、有り難う』
そう言って娘は電話を切った。


<続く>



[2008/01/29 21:45] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第38話  

第38話 未來退職


翌週18日(月)初七日も終え、久しぶりに本社に出社した徹路は、大忙しであった、朝一番に決済を終え、企画統括部の部長会議を済ませ、午後からは、葬儀に会葬いただいた、取引先にお礼の挨拶を兼ねた、表敬訪問に回り、全てが終わる頃には、年末の挨拶の時期に成っていた。徹路が休んでいた間に上本町駅新ターミナルビルの西側半分が地上12階地下4階で完成していた。


由有紀は宣言通り、24日クリスマスイブの日に神戸の女子寮に入寮していった。


祖母寿美の死は、未來にささやかなクリスマスプレゼントを与える結果になった。
葬儀の会葬者に対する、香典返しである。田舎の葬儀屋が腰を抜かすほどの、会葬者であったので、香典返しも莫大な物となった。


丁度、未來が外商部に勤務していたので、一喝して近鉄百貨店上本町本店外商部に発注することにした。勿論未來の手柄として。


明けて1973年(昭和48年)2月日銀は遂に為替の変動相場制に踏み切った。


4月、次女未來が、近鉄百貨店を退職した。


12月に母、寿美が亡くなって以来、駅前の、派出婦事務所から通いの家政婦さんを派遣して貰って、何とか家事をやり繰りしてきたのだが、未來が自主的に、


『これからは、お婆ちゃんと、お父さんにお世話になった分恩返しをする』


と言って、3年間勤めた、近鉄百貨店を退職した。
引き続き、週に何度かはお手伝いさんをお願いする事になったが、花嫁修業をかねて、出来るだけ彼女が家事をすることになった。


4月には阪神高速松原線が開通した、これで、既に開通している、西名阪自動車道、名阪国道と合わせ、自動車による、伊勢、志摩へのアクセスが格段に改善された。そして、この事が近鉄にとって強力なライバルが現れた事となった。1966年(昭和41年)11月”初代カローラ”が登場してから7年2代目カローラ登場から3年が経ち、一般家庭でも、”旅行の足”は鉄道だけではなくなってきていた。


6月前年の西館の完成に続き上本町ターミナルビルの東館が完成これで、既に完成していた近鉄百貨店南館と合わせ、大阪有数の巨大百貨店が完成した。


そして9月、橿原線の軌道中心拡大工事が完成、京都ー橿原神宮間に大型車が運行可能となり、同時に難波ー奈良間に初の有料特急が設定された。そして10月6日第4次中東戦争が勃発、これが引き金となって翌年1月からのオイルショックへとつながり、そして高度成長時代の終焉を迎える事となる。


<続く>
[2008/01/28 21:02] 鉄道小説 | TB(0) | CM(1)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第37話  

第37話 寿美の葬儀


徹路は事前に総務に、”葬儀を行う実家は田舎なのでバス道から先は車では入ってこれない様な辺鄙なところ。出来るだけ、乗り合いバス以外での葬儀への参列は控えていただきたい。”と案内するように伝えておいた。


果たして、徹路の危惧は的中、お通夜から混乱は始まった。


戸数20個程の山間の集落に、3時頃から黒塗りのハイヤーと、社用車が押し寄せた。
村の道路はバス道までふさぐ大渋滞、騒ぎを聞きつけ押っ取り刀で出かけてきた村の駐在もお手上げの状態、本署に連絡して、応援を求める有様。

弔問に訪れる人の多くは前に進めない車から降りて、数百メートルを歩いてお参りしていただく事になってしまった。


コンナ騒ぎの中、徹路はじっと座って等おられず、手伝いに来てくれた、社員に指示を出し、参列者にはお礼の挨拶とてんてこ舞いの状態であった。騒動は10時近くなってやっと収まっ
た。


翌日は、前夜の騒ぎが伝わっていたのか、社用車、ハイヤーの類は少なかったが、今度は大和上市の駅前が大混乱、タクシーは統べて出払い、隣の下市口の営業所のタクシーも総出となったが間に合わず、乗り合いバスも超満員、臨時便を出す有様。そのバスも渋滞にあい、途中から歩き出す人も出るしまつ。事態を重く見た徹路は、葬儀屋に言って葬儀の開始を遅らせることにしたが、それも1時間がやっと、出棺後も訪れる人のために、徹路は実家で待つことにした。


この事が、徹路と、長女由有紀との関係を決定づけてしまった。


葬儀だと言うのに、悲しみをこらえている祖父を1人にして、席を立ったり座ったりあわただしく動き回り、最後のお別れにも現れない父のそんな姿に無性に憤りを感じてしまったのである。


葬儀が終わり、親族一同での会食が終わり、みんな帰った後で。
由有紀が徹路に詰め寄った。


『お父さんは、仕事以外は頭にないの』
『突然何を言い出すんだ。』
『父さんが仕事々で、家のこと お婆ちゃんに任せっきりにするからコンナ事になったのヨ』
『…』
『サッサト新しい奥さんでも貰えば良かったのヨ』
『…それは…』
『母さんの時だってそう、父さんが家を空けっ放しで、家に寄りつかない物だから、母さんがあんな事になったのヨ』
『…それは…』
『もう私イヤ、コンナ家出て行く。』
『家を出て行くとはどういう事なんだ、女の一人暮らしなど許さんゾ!』
『ご心配なく、そんなお金は有りません、会社の女子寮に入ります。』
『姉さん…』
『もう私ご免、コンナ家にいたら、私が殺されちゃう。』
『姉さん、なんて事いうの!』
『出て行きたキャ勝手にしろ!』
『父さんも何言うの、姉さんを止めて!』
『ハイ、永らくお世話になりました、来週にでも荷物をまとめて出て行かせていただきます。』
『姉さん…』
『未來、私、先に帰るわよ。貴女もサッサト帰ってらっしゃい。』
『姉さん…』


妹の止めるのも振り切って、由有紀は富雄に帰ってしまった。


<続く>


[2008/01/27 21:38] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第36話  

第36話 母寿美の死


同1972年(昭和47年)3月山陽新幹線新大阪ー岡山間が暫定開業した。
”新幹線”が西に延びだしたのである。


この年、黒田分岐ー伊勢中川間の複線化工事が完成し、名古屋線全線の複線化工事が完工した。戦前の1938年(昭和13年)11月に名古屋ー中川間が開通して以来、実に34年ぶりの全線複線化完成であった。


この年の秋、奈良線の輸送力増強難波駅改良工事の一環として、難波駅構内引き上げ線の拡張工事が開始された。


そして12月徹路の母寿美が75才でなくなった。脳梗塞であった。


寿美が台所で倒れているのを、先に帰宅した未來が発見、救急車を呼んで、病院に連れて行ったが、意識は戻ら無かった。


吉野の父庄一には病院から、未來が電話を入れた。
『お婆ちゃんが倒れたの、今県立病院に運び込まれた所なの、お爺ちゃんすぐに来て。』
徹路が病院に到着したときには、既に事切れていた。ベッドの傍らには、未來とお隣から伝言を聞いて病院に駆けつけた由有紀が座っていた。
程なく1時間ほど経って、由有紀から知らせを聞いた、父庄一が、近所に住む妹幸子につきそわれて吉野からやっとついた。


変わり果てた、寿美を前に父庄一は、徹路の前で初めて涙を見せた。
夜遅くなって、妹、秋美と春美も病院に着いた。


翌日、庄一が寝台車に同乗して、母の亡骸を吉野の実家に連れて帰った。


『父さん、お寺を借りる様に、僕が手配しようか?』
『どうしてだ?』
『別に…、家は狭いし、その方が良いかと思って。』
『寿美はこの家から送り出してやる。』


徹路は、それ以上言えなかったが、この時徹路には、先年の妻梨花の葬儀の混乱ぶりが頭をよぎっていた。


近所のお寺を借りて行った、梨花の葬儀の時、お寺始まって以来という参列者となり、黒塗りのハイヤーと社用車でお寺周辺はごった返し、警察まで出る騒ぎと成っていた。


あれから12年、徹路は企画統括部部長になっているし、1972年(昭和47年)当時モータリゼーションが進んだと言っても、徹路の実家の周辺はまだまだ田舎、道路整備は遅れており、乗用車のすれ違いすら困難な未舗装の田舎道が殆ど、山間地なので駐車場に利用できそうな空き地すら無い状態だった。


<続く>
[2008/01/26 20:52] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第35話  

第35話 新青山トンネル着工


事故の記憶も生々しい1971年(昭和46年)年末社長が、徹路の所にやってきた。


『徹路君、決めた、ヤルゾ。』
『社長、何をですか?』
『トンネルだ、新青山トンネルだ』
『ハイ、でもまだ大分先の計画では…?』
『いや、事故の被害者や遺族の方々への補償交渉も御納得を得られそうな見通しが経ってきた』
『ハイ…』
『本当の償いはもう2度と今回のような事故を起こさないことだと私は思う』
『ハイ、おっしゃるとおりだと思います。』
『その為にも、まずは新青山トンネルの建設だ!役員会の承認を得しだい着工したいと考えている。』
『ハイ』
『それで、早期着工に向けて計画を前倒しして、詳細設計を詰めて欲しい』
『でも、まだ役員会の…』
『役員会の説得と、金は私が何とかする』
『はい』
『銀行に融資をお願いする為にも、早急に建設費を積算してくれ。』
『ハイ、承知しました。』
『ん、頼んだぞ!』


そう言って、彼は部屋を出て行った。


この年の年末、ニクソンドクトリンが発表され、ドルの金本位制が崩れた、これに依って1ドル360円が、1ドル308円となった。いわゆるスミソニアン合意である。これを機に世界各国は為替の変動相場制へと傾いていく。


翌1972年(昭和47年)2月3日札幌冬季5輪が開催された。


そして8月新青山トンネルを含む大阪線上津ー中川間17.9㎞、の複線化工事が着工された。
複線化工事と言っても、大部分は別ルート全くの新線工事と変わらない大工事である。


本社に新線建設本部が設けられ、企画統括部部長である、徹路自身が、建設本部長に就任し、現場の建設事務所所長には土木部大林部長が就任した。
いわゆる背水の陣である。


この年、田中内閣が誕生し”日本列島改造論”出版され、列島改造ブームが巻き起こった


<続く>
[2008/01/25 20:37] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第34話  

第34話 大阪線、特急電車正面衝突大惨事発生


1970年(昭和45年)3月15日この日から奈良線の全列車が難波発となった。
21日からは改装なった志摩線賢島に難波から直通特急が走り出した。


そしてこの年4月長女由有紀が神戸大学を、次女未來が帝塚山短期大学を卒業しそれぞれ、川崎重工兵庫工場技術部鉄道車両課と、近鉄百貨店に入社した。


またしても、長女は徹路と寿美の助言も聞かず、神戸に就職した。


『会社勤めは通学とは違う、神戸まで通勤するのは大変だゾ!』
『いいの私の人生は私がきめるの。』


そう言って、彼女は自室に引きこもってしまった。


徹路と、寿美の心配をよそに、彼女は5月病にもかからず、毎日朝早く家を出かけていった。
そんな彼女だが、一度だけコンナ事を言ったことがあった。


『父さん、本当に近鉄と阪神電車は繋がるの?、そうだったら早く繋がると楽なんだけどな…』
『鉄朗さんが、頑張ってくれている』
『アア、西宮のおじさん?』
『そうだ、彼は約束を守る人だ、今にきっと難波まで阪神電車を引っ張ってきてくれる。』
『そうなると良いね…』そう言い残して無表情なまま娘は、自室に戻っていった。


同年7月頃から、いざなぎ景気が到来、開催中の万博には全国から、団体さんが訪れ、連日超満員の日が続くようになった。


翌年1月上本町駅整備第2期工事が着手された。


そして2月、国道170号大阪外環状線整備に伴う恩地駅周辺の高架立体交差事業が完成した。


そして、運命の10月25日がやってきた。


大阪線、の最後に残された単線区間である青山トンネル出口の東青山ー榊原温泉口間で、特急電車同士が正面衝突し、死者25名、重軽傷224名を出す大惨事が発生したのである。


事故の第一報を受け徹路は、早速現地にとんだ。


車中、”どうして、どうして、こんな大惨事が発生してしまったんダ?”と何度も何度も、自身に問いかけてしまった。


事故現場に到着すると、そこは目を背けたくなるような惨状であった。


助けを求める声、救急車のサイレン、大声で怒鳴り合う作業員の声。


しばし、呆然と立ちつくしてしまったが、気を取り直し、被害者の救出に当たる、保線区員と応援に来た運転保安部、電気部、そして土木部員達を激励して回り、各部署の現場責任者から機材の手配などについて報告を受け、東青山駅に現地対策本部を設け、徹路配下の各部の責任者と共に本社に戻り対策を協議復旧の準備に取りかかった。



<続く>
[2008/01/24 20:12] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第33話  

第33話 悲願達成難波線開通


同年1969年(昭和44年)9月13日、京都線京都ー東寺間の連続立体交差事業が完成した。
8日遅れて、21日未明、前夜終電車終了後、取りかかった昇圧工事が終わり。奈良線、京都線、橿原線、天理線、生駒線、田原本線で、始発電車から1500v運行が開始された。
そして、5日後の26日、府道大阪中央環状線建設工事に伴う、八戸ノ里駅ー若江岩田駅間の高架工事が完成した。


同年11月地上12階地下4階の近鉄百貨店上六本店南館がオープンした。


そして、年の暮れ12月、近鉄志摩線24.5㎞全線の改軌・改良工事がスタートした。
同月5日には、上本町ターミナルビルに隣接した場所に近畿日本鉄道本社ビルが落成した。
阿部野橋から再び、上六に本社が戻ってきた。


翌日には、万博に向け急ピッチで建設されてきた地下鉄堺筋線が天神橋筋6丁目ー動物園前間で開業した。大阪の町は翌年の大阪万博に向け沸き立っていた。


9日には奈良線の地下化工事も完成、真新しい奈良駅に快速急行がさっそうと到着した。


そして15日には鳥羽線の宇治山田ー五十鈴川間が開通、年末、年始の初詣客を待ちかまえた。


そして年の瀬12月末に難波線トンネルが貫通、難波駅に到達した。 
翌1970年(昭和45年)2月24日難波線に試運転電車が入線した。
同日北大阪急行電鉄が江坂ー万国博中央口間で開業。前年11月10日に開業していた阪急電車の万国博西口駅とあわせ万全の受け入れ体制が整った。


そして3月1日鳥羽線が全通、志摩線の全線改軌工事も完成、上本町から賢島に直通特急の運転が開始された。


11日には、奈良駅ターミナルビルが完成。
同日市営地下鉄千日前線の櫻川ー谷町九丁目間が一足お先に開通。
14日には大阪万博が、華やかに開幕した。


開幕に遅れること1日翌15日に近鉄悲願であった難波線約2キロが開通した。
それまで30分以上かかっていた、上本町ーなんば間を3分で結べるようになった。


開通祝賀会には勿論西宮鉄朗も駆けつけてくれた。

『布施さん、おめでとう御座います』
『お忙しいところ有り難う御座います、西宮さん、』
『遂にやりましたね、遂に』
『はい、やっと完成しました。』
『先を超されてしまったなあ…』
『私も、ばんばらなくちゃー』
『その後、計画の進展はどうですか?』
『…いやーそれが、地元がもう反対で一向にらちがあかないんですよ』
『そうですか…』
『イヤ、失礼しましたコンナめでたい席で』
『いえ、それはご苦労ですね』
『苦労というより、徹路さんに申し訳なくて』
『なにをおっしゃいます、鉄朗さんそんなこと無いですよ』
『いやー、あんあ立派な駅を作って待って戴いていると思うと、申し訳なくて』
『いえ、そんな事は良いんですよ』
『大変でしょうが、ヨロシクお願いします。』
『私も、全力を尽くして頑張ってみます。』


2人は固い握手を交わして分かれた。


<続く>
[2008/01/23 21:32] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第32話  

第32話 モータリゼーションの到来


年も変わって翌1968年(昭和43年)2月奈良駅周辺地下化とターミナルビル建設工事が始まった。


同年4月次女未來が、帝塚山女子短期大学家政科に入学した。
未來は生来ののんき物で姉由有紀と違い余り勉強も好きでは無かった。祖母寿美の助言を素直に聞き入れ、そのままエスカレーター式に帝塚山短大に進学したのだ。
この時も、徹路は休暇を取り、入学式に参列した。
今度は、姉由有紀、祖母寿美、そして徹路、家族4人そろっての入学式であった。
帰りに、奈良まで出かけ、春日山の近くの料亭で家族4人そろって久々に会食をした。


同月7日神戸高速鉄道が開通した。


神戸市、阪神、阪急、山陽、神戸電鉄各社が共同出資で設立開業した同線は、高速神戸で山陽、阪神、阪急が新開地で神戸電鉄と接続している鉄道である。
この鉄道の開業によって、関西における戦後初の大手私鉄同しの相互乗り入れ直通運転が実現した。


これ以後、本題の、阪神ナンバ線開業まで、関西では私鉄間の相互乗り入れによる直通運転は実現されていない。


徹路は鉄朗から招待状を受け取り、祝賀会に出席した。


『西宮さん、おめでとう御座います』
『有り難う御座います、お忙しいところご足労いただいて申し訳ありません』
『いやいや、本当におめでとう御座います。』
『有り難う御座います。』
『これで、うちと繋がれば、金の鯱と白鷺が我々私鉄の鉄路で繋がる事に成りますね。』
『ハイ、次は東に進みますよ』
『お待ちいたしております。』
『ハイ、待ってて下さい。』
『ワハハハ…』
『ワハハハ…』


同月役員会で、奈良線、京都線、橿原線、天理線、それに吸収合併した、生駒線、田原本線を600vから1500vに昇圧することが決定された。


そして同月15日阪神本線西灘ー石屋川間の高架新線が開通し、18日には、同時進行で工事が進められていた、石屋川車庫が本格運用に入った。阪神電車にとって、戦後初の大工事と言ってもよい事業であり、全線高架事業の先鞭と成った。


そして翌5月鳥羽線建設が着工された。


同月上本町ターミナルビル南館建設を着工。
そして同じく同月米国のサンフランシスコ日本文化センターに系列の都ホテルが開業した。
またしても国分は語学の才を売り込みホテルの営業スタッフとして潜り込むことに成功していた。


同年9月、待ちに待った難波線トンネル本体工事が上本町駅西側からナンバに向かってスタートした。日本初の複線シールド工法による掘削である。同じ頃すぐ隣の地下鉄千日前線のシールド工法で掘削が始まったが、こちらは、実績のある単線シールドトンネルを2本掘る工法だった。


年も迫った12月20日戦前から永らく乗り入れてきた、京阪電鉄本線への相互乗り入れを廃止した。翌年に迫った、1500V昇圧への準備のためである。


翌1969年(昭和44年)3月21日西名阪自動車道が松原ー天理間で全通し先に開通していた名阪国道と繋がった。


そして、同月31日、前年の西灘ー石屋川間開通に続く全線高架事業と肩を並べる、大事業、新淀川橋梁のかけ替え工事と野田ー淀川駅間の立体交差事業が完成した。
これで、台風や、豪雨による淀川の増水の度に、本線が一時運休となる事もなくなった。
同年5月26日東名高速道路が全通し、本格的ハイウェー時代の到来となった。
これによって、東京、西宮間が高速道路で繋がり、以後陸上輸送の主役は、鉄道からトラック輸送に変わって行く事になる。


<続く>
[2008/01/21 22:13] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第31話  

第31話 久々の国分との対面


同年12月かねてから工事中だった奈良線東花園ー瓢箪山間の高架工事が完成した。
そして同月待望の名古屋駅構内拡張工事も無事に完工した今までの3線2ホームが5線4ホームの当時日本最大の地下ターミナルが完成した。


完成祝賀会に出席した徹路は、国分を見つけて声をかけてた。


『国分君おめでとう、よくやったな』
『ハ、…有り難う御座います』
『どうした、』
『いやそれが、部長御存知でなかったのですか?』
『ナンのことだ?』


『実は私、4年前の5月に名古屋鉄道総括部の営業課に移ったんです』
『…、ナニ、通りで、現場に行っても見かけないと思った、何だ逃げ出していたか』
『部長、大声で言わないでくださいよ』
『イヤ、悪かった、でもそうだろう、なにか…汚れ仕事は性に合わなかったか?』
『イヤ、別にそう言うわけでは無いのですが』
『それなら、何だ言ってみなさい?』
『僕には、どうも技術系の仕事が会わないみたいで、でも折角近鉄に入社したんだから何か自分にしか出来ないことを見つけてみたいと思いまして、心機一転、まずは営業から初めて見ようと思いまして』
『なんだヤッパリ逃げ出したんじゃないか』
『…そう言うことになりますかね、済みません』


彼はペコンと頭を下げた。


『まあ良い、君の人生だ、若いときは色々経験してみる物だ、まあがんばりたまえ』
『ハイ、有り難う御座います。』
『そうだ、その元気だ。』


徹路は、内心少し寂しかった、本当は、この青年が気に入っていた。徹路には無いものを持っているような気がしていたからだ。


たしかに、徹路が見たところ、お世事にも、優れたエンジニアとは思えなかった。だがその国分が、ロスの都ホテル、近畿日本ツーリストニューヨーク支店長、都ホテル大阪支配人、近鉄百貨店社長、近鉄不動産社長、…と近鉄グループを渡り歩き、もう一度徹路の前に現れたときには、45才の若さで、近鉄グループを率いる総領にまで上り詰めるとは、この時想像も出来なかった。



<続く>
[2008/01/20 16:31] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第30話  

第30話 近鉄難波線着工


1965年(昭和40年)大阪万博の開催が決定した。

この年4月、次女未來が帝山女子高等学校に進学した。

初めは
『姉さんと同じように電車通学がしたいから、帝山はイヤ』と言っていたが、祖母寿美と徹路に諭され、スクールバスで行ける帝塚山女子高に入学した。
この時も、徹路は休暇をもらい、入学式に参列した。


同年6月名神高速道路が全通した、ハイウェー時代の夜明けである。
9月地上10階地下3階の近鉄百貨店阿倍野本店新館が完成した。
そしてこの年の10月悲願の都心部乗り入れに向け難波線が上本町地下駅から着工された。
折しも、”いざなぎ景気”が到来、5年後の万博に向け、大阪の町は何処よりも早く沸騰しだしていた。


鉄朗から電話がかかってきた。


『布施さん、おめでとう御座います。』
『西宮さん有り難う御座います』
『僕の所は、もう少し時間がかかりそうです』
『そうですか、せいては事をし損じるですよ鉄朗さん』
『有り難う御座います、徹路さんとの約束は必ず守りますから待っていてください』
『難波駅は社長命令で、阪神さんがいつでもこれるように設計しましたよ』
『有り難う御座います、待っていてください、必ず行きますから』『ハイ、お待ちしていますよ』
『それでは、又その内に機会を作って合いましょう』
『本日はおめでとう御座いました、失礼します』
『有り難う御座います、失礼します』


そして翌1966年(昭和41年)4月長女由有紀が神戸大学工学部機械工学科に進学した。
『神戸までの通学は大変だから、近くの大学にしておきなさい。』と言う、徹路と寿美の忠告も受付ず、同大に進学した。


言いだしたら、聞かないのは徹路譲りであった。


当時は、女子寮に入るか、4畳半一部屋の下宿住まいをするか、自宅から電車通学をするか、その位しか選択技は無く、今のように、フローリングのロフト付き1ルームマンションに1人住まい等、はとうてい考えられない時代であった。
彼女は、一言も愚痴らず、毎朝早く、神戸に出かけていった。


同月その後に続く海外旅行ブームのきっかけとなる外貨持ち出し枠の年間5万円までが一回5万円までとなり実質撤廃、海外渡航が完全に自由化された。


その年1966年(昭和41年)の11月日本橋駅が着工となり、
同月、地上10階地下3階の近鉄名古屋駅ビルが完成した。


この年の12月16日名阪国道が開通した。
開通当初は車もまばら、大型の観光バスが利用するぐらいの観光道路だった。


そして翌年1967年4月難波駅建設工事が着工した。
同月本社、経営企画部と徹路の企画統括部が共同で、伊勢志摩総合開発事業計画と、上本町駅ターミナル整備計画を策定した。


この年の8月阪神ナンバ線の用地買収も始まった。ところが事はそう簡単に進まなかった、地元商店街が、ミナミに客を奪われることを懸念、町が分断されると市会議員に持ちかけ、住人を巻き込んで反対運動に回った。住人説明会迄拒否する有り様で、岩礁に乗り上げ、しばらく静観しようと言うことになった。


鉄朗は、一部始終を徹路に電話で説明し、自分の至らなさを詫びた。


『鉄朗さん、仕方ないよ、根気よく働きかければ、皆も判ってくれるよ。そうがっかりしないで』
『有り難う、でも本当に済まない、私の力が到らなくて』
『そうがっかりしないで、私はお先に難波で待っているから気を落とさないで頑張ってください』
『有り難う…』


徹路は電話の向こうで心から詫びる鉄朗の姿が目に浮かぶようで、それ以上何も言えなかった、と同時に前途の多難さを直感した。


<続く>

[2008/01/20 00:06] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第29話  

第29話 久しぶりの現場の匂い


来るべき”レジャー時代”に向け、東の玄関口名古屋駅の大改造事業が着工された。
同年11月にはターミナルビル着工、そして12月に駅構内大改造工事着工。
この時、徹路ははやる気持ちを押さえた。


”もう現場で陣頭指揮に立つ立場では無くなってしまったんだ”


それでも、工事となれば血が騒ぐ、適当な理由を付けては、現場を訪れた。
そんな現場で、ヘルメットに作業服、安全靴姿の、青年を見つけた、と言うよりまたしても向こうから大声を張り上げながらやってきた。先年 分室の庭先であった国分である。



『そこの杖ついたオッチャン、コンナとこに入ってきたら危ないがナ!』
『国分君、私だよ』
『私か、かがしか知らんけど、エエからハヨ出て行って!』
『国分君、布施ダヨ、布施』
『伏せ、伏せってうるさいオッサンやナ』


近くまで来て、顔をのぞき込んでやっと気がついた。


『ぶ、…部長じゃないですか?』
『コンナ所で何していらっしゃるんですか?』
『イヤ、突然ですまなかった』
『…こ、こちらこそ失礼ナ事申しまして、申し訳ありません』
『イヤ、…ところで丁度いい、現場を一通り案内してくれんかね』
『ハイ、かしこまりました。』


相変わらず、のお調子者である。


『所で、ココの工区は何処が施工しているのかね?』
『エエ~と』


突然、向こうの方から、誰かが叫んだ。


『徹路さ~ん』


徹路が振り向くと、かなりの年配の土工だった、


『…もしかしてヤリさんかい?』
『覚えているとも』
『チョット、アンタエライなれなれしいな』
『若造は、ひっこんどけ』
『ナンヤテ…?』
『国分君、いいんだよこの人は』
『でも、部長…』
『部長?アンタが、土木部長?』
『ちゃうで、オッサン、この人はその上の、企画統括部長さんヤ』
『企画統括部、聞いたこと無いな』
『ゆうてみれば、本部長と言ったところや』
『まあ、いいじゃないか』
『徹路さん、コンナ所になにしに来てるんだい』
『言って見れば、現場視察だよ』
『ええ、視察がずいぶん偉くなったんだな』
『いや、そんなことないよ、昔とかわらんさ』
『視察とやらが、おわったら、後でよんなよ、じゃ俺いくは』
『じゃ後で、場におじゃまするよ』


『へ、ずいぶんなれなれしいオッサンでしたね部長』
『オイオイ、オッサンはないだろう、あの人は、鑓水組の鑓水さんだよ』
『鑓水さんて、あの鑓水さん?』
『そうだよ、会長の鑓水さんだ』
『アカン、又やってもた』


その後、国分は、1年ほど土木部にいたが、居なくなってしまった。後で判ったが、土木部が性に合わないと勝手に転属を申し出て、名古屋輸送統括部の運輸部営業課に転属してしまったらしい。それも転属先を自分で見つけてきて、人事部長に直談判し自分から転属したという。



<続く>

[2008/01/19 15:08] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第28話  

第28話 名阪ノンストップ特急の登場

この年は、忌まわしい年でもあった、あのベトナム戦争が始まった年でもあったからである。


前年より工事を行っていた、中川短絡線が3月29日に開通、名阪ノンストップ特急が運転を開始した。
そして8月8日津ー津新町間複線化工事完成これによって。
9月ダイヤ改正でノンストップ特急は名阪間を2時間18分で結べるようになり、2時間14分で結ぶ’ビジネス特急こだま”とやっと互角に戦えるようになった。


この年の12月8日阪神電車野田駅周辺高架事業が完成した。


1905年(明治38年)4月三宮ー出入橋間で軌道線として営業を始めて以来、併用軌道区間の名残でカーブが多く戦前1929年(昭和4年)から1939年(昭和14年)にかけ、御影駅周辺、神戸ー岩屋、出入橋ー梅田間と高架化や地下化は行われたが平面交差区間が大部分を占める阪神本線にとって、輸送力増強には全線の高架立体交差化事業は宿願でもあり、野田駅高架化は戦後の本線高架化事業の始まりでもあった。


翌1962年(昭和37年)4月次女未來が中学校に入学した。この時も徹路が休暇を取り、母寿美と3人で入学式を迎えた。


同年9月、奈良線輸送力増強計画の要、新生駒トンネルが着工された。


そしてこの年10月3日(水)藤本監督率いる阪神タイガースが、セ・パ両リーグ分裂後初、通算5度目のリーグ優勝を勝ち取った。
徹路は鉄朗に電話を入れた。


『鉄朗さん、優勝おめでとう』
『有り難う、徹路さん…』
『何をいったら判らないけど、ほんとにおめでとう』
『いや…電話くれて有り難う』
『再来年には、西九条迄伸びてくるし、僕も頑張らないと』
『いやー…、そこから先のめどが立ってないんですよ』
『めでたい日に、コンナ話をして…、お仕事頑張ってください鉄朗さん』
『有り難う徹路さん、それじゃまた合いましょう失礼します。』


翌1963年(昭和38年)4月鈴鹿市ー平田町間の新線が完成、鈴鹿線と改称された。


同月、長女由有紀が、名門奈良県立奈良高等学校に進学した。
責任感が強く、妹思いの由有紀は、母梨花の死を乗り越え、年老いた祖母寿美を支え、留守がちな徹路に変わって、立派に家庭を守っていた。


同年7月名神高速道路が部分開通し、ハイウェー時代の幕が開かれた。


同年9月のダイヤ改正で、遂に近鉄が国鉄に勝った。
たった1分の差ではあるが、名阪ノンストップ特急が2時間13分で両都市を結んだのである。


そして10月京阪電鉄との共同出資会社であった、奈良電気鉄道今の京都線を吸収合併した。


翌年1964年(昭和39年)は国内航空路にとってもエポックメーキングな年であった、新年早々、JALが国内線にボーイング727を登場させたのである、東京ー大阪間は1時間になり、国内線のジェット時代が本格的に幕を開けたのである。
そして4月には海外渡航が自由化された、まだ1ドルは360円の固定相場制、外資持ち出し年間5万円の時代ではあったが、一般人が海外に自由にいけるようになったのである。
翌1964年(昭和39年)3月名古屋線最後の単線区間江戸橋ー津間の複線工事が完成した。


同月、後に近鉄湯の山線となる、三重電気鉄道湯の山線の改軌昇圧工事が完成、名古屋線の車両がそのまま入線できるようになった。同じ月に大阪環状線の全線が完成、環状運転が開始された。


これを追うように5月21日阪神伝法線、千鳥橋ー西九条間が完成、難波に向かって、先ず一歩を歩み出した。


徹路は生駒トンネルの建設工事も佳境に差し掛かっており、忙しい最中ではあったが、鉄朗から招待状が届き、祝賀会に招かれ出席した。41才になっていた鉄朗は、鉄道事業本部長になっていた。


『西宮さんおめでとう御座います』
『有り難う御座います布施さん』
『先を越されましたな、』
『先を越されたなんて、まだ一歩を踏み出しただけですよ』
『イヤ.でもほんとに良かった、鉄朗さん、若い頃、僕たちが夢見た連絡鉄道が実現に向けて一歩を踏み出して』
『有り難う御座います、これからが大変だと思っています、ここから先用地も確保出来ていないし』
『さあ、私も頑張らなくては』
『そうですね、来年着工すると言うお話でしたね。』
『そうです、何とか70年の万博に間に合わせようと、今準備しているところです』
『70年に開通ですか、イヤ羨ましい、うちは用地の手当もこれからだし』
『イヤ長話をしてしまって、生駒の現場が気になるのでこれで失礼します。』
『ほんとに、お忙しいところご足労いただいて有り難う御座いました』
『それでは、何時かまた、失礼します。』
『失礼します』


そしてこの年7月待望の新生駒トンネルが完成7月30日生駒駅迄20m級の大型通勤電車が
到達出来るようになった。


この年の9月30日名将藤本監督率いる阪神タイガースが戦後3度目通算6度目のリーグ優勝を果たした。


翌日10月1日新向谷トンネルが完成し、上本町ー奈良間に大型車両が投入された。
同日東海道新幹線が開業した、そして、名古屋ー新大阪間を1時間21分で結んでしまった。
もう、スピードで国鉄に太刀打ち出来なくなった近鉄は、以降、リゾート開発に向かい、リゾート特急を全線に展開することとなる。その走りとして、京都ー橿原神宮間に座席指定特急を登場させた。


この日鉄朗から、徹路に電話が有った。


『おめでとう御座います、徹路さん、今日から、奈良線に大型車両が入線したという知らせを聞きました。』
『有り難う。鉄朗さんこそ、阪神優勝おめでとう御座います』
『有り難う御座います。ご存知だったんですね』
『うちなんかより、大阪の町中はタイガースの優勝で持ちっきりですよ』
『有り難う』
『イヤー、今年はめでたい事が続いた年でしたね』
『有り難う御座います。徹路さん、お忙しい最中に』
『いや新幹線になんか負けないように、うちも頑張りますよ、』
『そうですね、お互いいい年になったんだから頑張りましょう』
『それじゃ』


そして10月10日あの東京オリンピックが開幕した。


<続く>
[2008/01/17 22:06] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第27話  

第27話 国分太郎との出会い


翌週2月1日(月)初七日も終え、久しぶりに本社に出社した。
中川短絡線の実施計画に目を通し、葬儀に参列してくれた人たちに挨拶をして回り、、午後からは他部署との連絡会議とスケジュールがびっしり詰まっていた。
感傷にふけっている場合ではなかった。


3月由有紀の卒業式には、母寿美が、参列してくれた。次女未來の終業式が終わり、娘達たちに春休みが訪れた。
彼女達は姉妹の祖父庄一が住む吉野の里に、お婆ちゃんと連れ立っていった。それ以降、夏休み、冬休みと、休みが訪れる度に、姉妹は徹路の実家で過ごすこととなった。


そして、4月長女由有紀がお婆ちゃんに連れられて、中学校に入学した。

この年は、その後に続く、名古屋線の改修工事の仕上げ、最後に残された単線部分、江戸橋ー津ー津新町間約4㎞の複線化工事の準備、翌翌年の1962年(昭和37年)から着工予定の新生駒トンネルと新向谷トンネルの最終設計と奈良線全線の大型車両導入に伴う建築限界の変更に伴う軌道間隔拡大工事実施計画の策定等、土木部は目も回る忙しさだった。
しかしこの年の前半は前の津ー津新町間の複線化工事以外着工された区間は無く、徹路も実母と娘達が住む、自宅から通える日が続いた。


この年はダッコチャン人形が大流行した年で、徹路も娘達の為に系列百貨店のオモチャ売り場に並び買って帰ったり出来る余裕もあった。


同年9月16日創立50周年を迎えた近鉄は、当時のあやめ池円形大劇場で徹路達約1000人の出席者を招待し記念式典を催した。
記念式典に先立ち、人事異動を発表し、山本本部長が鉄道事業本部本部長に、そして土木部長になって3年の徹路が企画統括部(旧技術本部)部長に昇格した。


翌年1961年(昭和36年)3月、前年の10月から着工していた中川短絡線がようやく完成し
た。そして29日名阪ノンストップ特急が運行を開始した。


その年の4月、後に近鉄の社長となる国分太郎が入社してきた。
1940年(昭和15年)生まれの国分太郎は、戦後の新しい教育制度で育った才人だった。北野高校から大阪大学に進み土木工学科を卒業した変わり者だった。


4月のとある日、徹路は朝早くから、難波線建設のため上六に移った企画統括部分室の庭掃除をしていた、そこに背広姿の見慣れぬ青年が現れ、いきなり声をかけてきた。


『オッチャン…朝から精出るな、企画統括部分室ってココかいな』
『アアそうだ』
『ワイなー、今日からここで働くことになっったんや、宜しゅう頼むわ』
『そうか…』
『ナンや、無愛想なオッサンやな、まあエエわ、そいでやな』
『どうかしたか』
『いそがせんかてええがな』
『わるかった』
『うにゃ、聞きたいのはナ、布施徹路て言うオッサン知っとるか?』
『まあ一応…』
『ほいでやな、そのオッサンとこで、働くんやけど、どんなオッサンや?』
『どんな人かって?』
『ほや、噂では、エライ、変骨で頑固なオッサンやと聞いとるんやけど?、本(ホンマ)はドナイやネン』
『私はいい人だと思うよ』
『本(ホンマ)か?』
『ああ物わかりが良くていい人だがな』
『まあエエわ…、アカン、コンナとこで話しとったら、時間におくれるは、オッチャン精出してがんばってや』
『ああ、有り難う、君もナ』
『ん、おおきに、ほな行ってくるハ』


口は悪いが、気さくで気だての良さそうな青年だと思った。


徹路が、部長室に戻ると、先ほどの青年が手前のソファーに腰掛けて、お茶をすすっていた。


『オッチャン、コンナとこに来たらアカンがナ、部長に見つかったら怒られるでえ』


徹路は黙って、脇のロッカーを開け、ネクタイを締め、上着を真新しい作業衣に着替えた。
青年は、あっけにとられて見ていたが、部下の女子社員がお茶を運んできて、やっと状況を理解できたようだった。


『失礼します』
『入りたまえ』
『部長、お早う御座います。』
『やあ、お早う』
『お茶を持って参りました』
『有り難う、そちらの机に置いておいてくれたまえ』
『ハイ、それでこの方が先ほどからお待ちですが』
『ん、判った』
『しつれいします』

と言って彼女は立ち去った。


国分は恐縮したように、立ち上がって

『お早う御座います、初めまして、こ…国分太郎ですヨロシクお願いします。』
『布施です、よろしく』
『先ほどは失礼いたしました。』
『…、ああ良いんだ、気にしなくて』


徹路は笑いながら国分に問いかけてみた。


『どうだ、聞いていたとおりの、頑固親父か?』
『ハ…イイエ、…申し訳ありませんでした。』
『そうか、君のことは、総務部長から宜しく頼むと言われている』
『ハイ、申し訳ありません』
『そう、恐縮しなくて良いよ』
『今、課長に案内させるから、しばらく待ちたまえ』
『ハイ、有り難う御座います。』
『…ん』


徹路は受話器を取って、部下の井上課長に冗談めかして内線した。


『井上さん、新人さんがお見えになったので、宜しく頼むよ、』
『…ハイ、ただ今』


<続く>


[2008/01/16 21:08] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第26話  

第26話 突然の妻の死



翌年1960年(昭和35年)1月妻梨花が突然血を吐いて倒れた。慣れない土地に引っ越し、殆ど帰宅しない徹路に変わって、家を守っていた梨花は無理がたたって、結核を患っていた。


血を吐いて倒れるまで、発見が遅れたのは、徹路を心配させまいと、隠していたからだった。12才の由有紀と、10才の未來を抱えて、入院もまま成らず、隠していたらしい、救急車で病院に運ばれたが既に手遅れの状態で2週間後に無くなった。享年33才若すぎる死であった。


徹路が、病院に駆けつけたときには、梨花は既に帰らぬ人となっていた。
長女由有紀が、呆然と立ちつくす、徹路の胸元に、何度も、何度もコブシを叩きつけ、泣きながら、抗議共受け取れる質問をした。


『ネエ、どうして母さんは死んだの?ねえどうしてなの…父さん。ねえ…答えて、どうして、どうしてなの…』
傍らで、次女未來が、ワア、ワアないていた。
徹路には、何も答えられなかった。
長女のコブシを受けながらただ呆然と立ちつくすだけであった。
見かねて、徹路の母が、長女を抱きかかえて、引き離した。


この時以来、長女は徹路の前では決して、笑顔を見せなくなった。それどころか、徹路と目も合わせなくなり、徹路が帰宅すると、妹を引っ張って逃げるように姉妹の部屋に引きこもるように成った。
徹路は手遅れになるまで、気がつかなかった自分を責めた。


梨花の葬儀は近くのお寺で行った。吉野から出てきた梨花の実の母親は泣きくれるだけで、何も言わなかった、校長もじっと悲しみをこらえているかのような表情で、徹路とは一言も話さなかった。


葬儀が終わり、62才の母寿美が徹路に


『これからどうするつもりだね』と切り出してきた。
『さあ…どうした物か…、自分一人なら、食事は会社の社員食堂と行きつけの食堂で済ませるし、身の回りの事も何とかなると思うんだけどね、だけどこの子達の世話は自分一人ではどうすることも出来ないだろうし。』
『何を無責任なこといってんだよ、シッカリしなさい。』
『…ああ…』
『お前がそんな頼りないこと言う子だとは思わなかったよ』
『…』
『後に残されたこの子達が可哀相でたまらないよ…』
『さっきお父さんと話したんだけど…』
『私がこの家に来てこの子達の面倒を見ることにしたよ』
『…済まない母さん、でも父さんは?』
『父さんなら、近所に嫁いだ幸子が何とかしてくれるって言ってくれてるよ』
『そうか…、幸子にまた迷惑をかけてしまうのか…?』
『そんなことより、この子達の事を考えなさい』
『…ん…』
『取りあえず、明日一度吉野に戻って、身支度をして出てくるよ』『ありがとう母さん、…済まない』


翌日の夜、母は身の回りの物をたづさえて徹路の家に来てくれた。


<続く>
[2008/01/14 20:54] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第25話  

第25話 伊勢湾台風襲来と宿願の名古屋線改軌完成。


その年の10月14日、2年にわたって続いている鍋底景気を突き破る様に世界一の東京タワーが完成した。


この年の暮れも押し詰まった12月長野線古市ー富田林間の複線化工事が完成した。
そして、関西にもモータリゼーションの到来を予感させる阪奈道路が,25日に全通した。
それまで、阪奈間のアクセスをほぼ独占してきた近鉄に、モータリゼーションの波がひしひしと迫ってきていた。


翌1959年(昭和34年)2月1日、待ちに待った、難波線の特許が、阪神西大阪線の延伸特許と共に降りた。


近鉄社内は沸きに沸いた、市営モンロー主義の壁を打ち破りやっとミナミの中心部ナンバに乗り入れが敵うのである。


徹路はこの知らせを受けとり、早速鉄朗に電話をかけた。


『西宮さん、やっと特許が降りましたよ』
『私も今しがた知らせを受け取りましたよ徹路さん』
『鉄朗さん、イヤ、ほんとにおめでとう、良かったですね』
『徹路さんこそ、おめでとう御座います。』
『有り難う御座います。』
『又2人で力を合わせて頑張りましょう』
『そうですね、お互い頑張りましょう…』


11年後開催に向けて正式に立候補が決まった”大阪万国博覧会”のアクセス鉄道として、大阪市だけでは地下鉄網が建設困難と判断され市側も渋々譲歩、平行する千日前線や堺筋線、北大阪急行線、等と一緒に認可されたのであった。


徹路は、早速詳細設計に取りかかるため、土木部の中に、難波線建設本部を設け、詳細設計に取りかかった。


更に、同年4月名阪間輸送力増強の一端として、大阪線 名張ー伊勢中川間41.7Kmの複線化工事が着工した。


4月16日に現平成天皇当時の皇太子様と皇太子妃美智子様がご成婚された。世の中は祝賀気分で浮かれ消費も回復し2年間続いた鍋底景気から脱却し、再び高度成長の線路を走り出した年でもあった。


この年名古屋線の改修工事は着々と進行し、9月19日には揖斐・長良川鉄橋が完成。
そして9月26日(土)に木曽川橋梁が完成しこの区間の複線化工事が完成し同日から供用を開始したその日に伊勢湾台風が襲来した。


超大型台風は、紀伊半島を縦断伊勢湾沿いを北上し、三重県、愛知県を直撃、近鉄名古屋線は、全線に渡って被災、道床や電気設備がいたるところで流失や水没にあい、ずたずたにされてしまった。


特に供用を始めたばかりの木曽川橋梁の東側が弥富を挟んで伏屋の当たりまで、完全に水没してしまった。


翌日徹路は社長と共に現地に飛び、全線を視察、現地に災害復旧対策本部を設置、昼夜兼行で災害復旧工事の陣頭指揮当たった。


4日後の30日(水)には名古屋から市内の伏屋迄復旧、さらに翌日10月1日(木)には桑名ー伊勢中川間が復旧、15日(木)には伏屋ー蟹江間が復旧した。最後に残った蟹江ー桑名間は尤も被害が大きく水が引くまで2週間近く掛かり手の付けられない状態が続いた。


この間本社では呼び戻された徹路を交えて役員会が開かれ、社長佐治一徹の英断で急遽、来年からの予定であった、標準軌への改軌事業を前倒しして実施することと成った。
『これ以上電車を止めるな、一刻も早く改軌事業を完成させ、お客様の信頼に答えろ』
と言う社長の一喝で被災から約一ヶ月後の10月19日(木)水没を免れた、桑名以西から工事が再開され8日後の27日(金)に最後に残った弥富周辺が完工し、全線復旧、同時に長年の宿願であった名古屋線全線標準軌への改軌事業も達成された。


この時の工事の様子は近鉄社内で語りぐさと成った。


全線約80km当時はロングレール等無く25mのレール、これを枕木に犬釘で止める工法が殆ど、大ざっぱに計算しても単線分で80000m÷25m×2本=6400本 一部江戸橋ー津新町間約4㎞は単線区間として残っていたが、伊勢若松ー鈴鹿市間約4㎞も同時に改軌したので全線複線と同じ、6400本×2≒13000本待避線などの引き込み線や分岐器を考えるとこれぐらいの数の線路を移動したことになる。


翌年の工事着工予定に向け予め枕木を交換してあった区間もあり、片側の線路だけを移動するだけで済んだ区間もかなり有った、いくら伝統的に改軌工事に慣れた近鉄とは言え、現在のように専用の重機も輸入されていない時代、工夫達は16時間ぶっ通しで働き数時間の仮眠を取っただけで、それこそ夜を日に継いでの突貫工事を行ってくれた。


夜は、当時普及しだした、水銀灯と、昔からの白熱電球をズラーと並べて、煌々とした照明の下、何百人もの工夫達が一列に並んでレールを担ぎ移動し、一斉に犬釘を打つ様は壮観であった。そのおかげで1日約10㎞のハイペースで9日間で完成させることが出来た。この間、徹路は毎日数時間の仮眠だけで四日市に設置した災害対策本部と現場を往復し、給食のおにぎりを配って、工夫達を激励して回りながら、詳しい進捗状況を逐一本社に報告していた。


年も押し迫った、12月12日2代目ビスタカーの投入に合わせて、名阪直通特急の運行が開始された。これで中川で乗り換える事無く、座ったままで名古屋まで行けるようになり、私鉄による日本初の長距離大都市間連絡列車が誕生した。



<続く>

[2008/01/13 21:20] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第24話  

第24話 ビスタカーの登場と誕生秘話


皮肉なことに、この年から世の中は、あれだけ威勢のよかった、神武景気が急速に衰え、不景気に見舞われていた、俗に言う”鍋底景気”である。


そんな景気を吹っ飛ばそうと、翌1958年(昭和33年)7月近鉄は大阪線に、リゾート列車の走りである、初代ビスタカーを投入した。
アメリカンデザインの先頭車を持ち中間部に2両の2階建て車両を連結した7両編成の列車は大陸横断鉄道を彷彿とさせる勇姿であった。


実は、このアイデアを出したのは徹路であった。友人でもある車両部の谷口課長から新しい特急電車のデザインについて相談され、それならと戦前の土木学会の会報に載っていた米大陸横断鉄道の写真を見せながら、徹路が初めて青山峠越えをしたときの強烈な印象を話した。


まだ見ぬ彼の地のロッキー山脈越えに思いをはせた、あの時の印象を思い起こして彼に語った。


当時工業デザイナー等という専門職はまだ無く、
『かっこいい特急をデザインしろ』と社長から指示を貰っていた谷口は、初めての特急専用車両のデザインに頭を悩ませていたらしい。


徹路のアイデアと資料室で見つけた大陸横断鉄道の展望列車の写真からヒントを得、彼が1人で我が国初の2階建て車両を持つ”ビスタカー”のデザインを決めていった。


登場当初は、リゾート気分どころではない不景気風が吹いていたが、年末に懸けて景気は序序に好転、それに合わせて、乗車率も好転、年末年始のかき入れ時には、特急券の前売りと同時に完売の人気ぶりであった。
この年9月名古屋線全線約80㎞に渡る標準軌への改軌事業計画が開始された。


又この年の11月にはライバルである国鉄が満を持してビジネス特急”こだま”を東海道本線に登場させた。


東京ー大阪間を6時間50分で結ぶ”こだま”は話題をさらうと同時に、名古屋ー大阪間も2時間20分で走破し、近鉄の名阪連絡特急の2時間35分を抜き去ってしまった。中川乗り換えの不便さはある物の、国鉄より、安い料金と何よりスピードで売っていた近鉄から、名阪間の乗客が、忙しいビジネス客を中心に国鉄に流れ始めていた。


徹路には、名古屋線の改軌が完成さえすれば、”こだま”何ぞには負けない自信が有った。しかし着工予定は1960年(昭和35年)それまでは、名古屋線の完全複線化と線形改良工事を成し遂げ、例え数分でも時間を稼ぐ以外手はなかった。


<続く>


[2008/01/08 21:20] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第23話  

第23話 名物部長の誕生


工事も中盤に入った翌1955年(昭和30年)、朝鮮戦争での特需景気をバネにすっかり回復した日本経済は、神武景気と言われるほどの好景気に湧いた。


旺盛な需要を見込んで翌1956年(昭和31年)2月阿倍野近鉄百貨店の増築工事が着工された。


同年4月次女未來が小学校に入学した、前々年の1954年(昭和29年)長女が小学校に入学したときは、仕事の都合で休みが取れづ、妻の梨花だけが入学式に参列したが、今度は、徹路も、休暇を貰って、参列することが出来た。
それから毎日姉妹は仲良く、手を繋いで登校した。


9月28日、宿願の名古屋線河原町ー海山道間の新線が開通し名古屋線に大型車両が投入された。


そして12月8日には上本町ー布施間の複々線工事が完成した。
名阪連絡特急の所用時間は、それまで戦前の連絡急行並みに留まっていた2時間55分を20分も短縮し2時間35分で駆け抜けるようになった。


又同年10月には長野線の古市ー富田林間の複線化工事が着手されていた。
更に同じ月の10月28日には浪花のシンボル”通天閣”が完成していた。
名古屋のテレビ塔に後れる事2年、戦時中、火災にあい解体され、供出の憂き目にあっていた、”通天閣”が地元有志の力で蘇ったので有った。


徹路も部下達に誘われ見物に出かけたが、黒山の人だかり長蛇の列で、とても展望台に上がれる状態ではなかった。


翌年1957年(昭和32年)徹路はこれまでの功績を評価され山本部長の技術本部本部長就任と同時に、40才の若さで後任の土木部長に抜擢された。


そしていよいよ手狭になった、社宅住まいを諦め、当時宅地開発の最中にあった、奈良線富雄・学園前周辺に移り住む決心をしていた。
昭和25年から始まった住宅金融公庫の住宅ローンと昭和30年から前年まで続いた神武景気に押されて、庶民でも一戸建て住宅が夢ではなくなってきていた。


住宅金融公庫の審査がおり、会社の社員共済組合から、借金をし、貯金と合わせて、南向きの平屋のこじんまりとした家を、富雄駅から10分ほどの傾斜地に建てることが出来た。


10月に完成した新居には和室の6畳間2部屋、同じく6畳間のリビング兼応接の洋間、4畳半のダイニングキッチン、玄関とそれに何より風呂場が出来た。


10才と8才になった娘達は、冬場、寒い思いをして銭湯に行かなくて済むようになると大喜びであった。妻の梨花は歩いてすぐいける所に市場が無く、買い物が大変になると少し不満げであった。


徹路も天王寺の本社迄通うのに、以前より少し時間が掛かる様に成ったが、喜ぶ娘達の姿を見て大満足であった。


この頃には名古屋線の揖斐川・木曽川橋梁の複線化に伴うかけ替え工事はもう始まっており、技術本部内ではその次に控える大事業、名古屋ー中川間名古屋線全線約80kmを1435mmの標準軌に改軌する事業計画を1960年(昭和35年)の着工に向けて準備している真っ最中だった。


<続く>
[2008/01/07 00:13] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第22話  

第22話 未來誕生と現場


翌1949年(昭和24年)5月、次女未來が誕生した。
徹路は日本の未来と彼女の行く末を願って未來と名付けた。


1950年(昭和25年)6月朝鮮戦争が勃発した。
皮肉なことに朝鮮半島での戦争が戦後5年しか経っていない、日本の復興を助けてくれた、いわゆる”特需景気”である。


翌年10月一連の名古屋線改良工事として鹿川分岐ー海山道間の複線化改良工事を含む河原町ー海産道間の新線建設工事が着手され、徹路は所長として四日市の新線建設事務所に赴いた。


翌1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約が締結され、名実共に、日本は独立国家として、戦後を歩み出すこととなった。


この年は”日本の空”にとっても記念すべき年となった。
日本航空による自主運行が再開したのである。
戦後GHQによってもぎ取られていた”日本の翼”が日本航空の手によって完全に蘇ったのである。以後、プロペラ機に始まって、現在のジェット機に至る航空路の台頭へとつながって行く。


35才になった徹路は課長に昇進した。


同年8月28日四日市新線建設の第一歩とも言える鹿川分岐ー海山道間約1.4㎞の複線化工事が一足先に完成した。


翌々年の1954年5月上本町ー布施間の複々線化工事も着工された。
徹路はあらたに複々線化事業の総指揮を任され四日市の現場は同僚に任せ上本町にできた建設本部に戻った。


役員会を通過した案件に関しては追加工事も含めて技術本部長の承認無しに全てを判断出来る立場である。


だからという訳ではないが、どの現場でも土工達を大事にしていた徹路は土工達の待遇改善には経費を惜しまなかった。


当時は、工事と言えば工夫がバラックの場に寝泊まりしていた頃彼らの楽しみと言えば食事ぐらいしかなかった。


戦地で粗末な、と言うより食う物にも困った経験から、場の食堂には、当時は珍しい栄養士を置かせ、系列百貨店の仕入れルートを活かし、土工達が空腹や栄養失調で倒れることがないよう、十二分な配慮をした。


戦後7年が経ち特需景気のおかげもあり急速に戦後復興が進み、食料品も比較的容易に入手出来るように成ったとは言え、町中に食料品が豊富にあふれている時代ではなかった。


また、従軍以来の現場暮らしの経験から、工夫の日常の負担を少しでも軽減してやろうと、この頃やっと普及しだした電気洗濯機も、3台購入、場に設置させていた。


徹路は休日の公営賭博とパチンコ、それに飲酒ぐらいしか楽しみのない工夫達のために、当時高価だったTV受像器を経費で購入し、四日市の現場と複々線工事現場の場食堂に設置した。


この年3月NHK大阪放送局とNHK名古屋放送局が共にTV本放送を開始したばかりであった。


16時30分の終業でひとっ風呂浴び、食堂に集まった土工達は食事もそこそこに、TVに群がって食い入るように眺めていた。


<続く>

[2008/01/06 14:39] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第21話 

第21話 初めての大工事


名古屋線桑名での複線化工事が完成したこの頃、徹路は重要な2つの建設工事計画に取りかかっていた。


一つは、名古屋線における当時の近鉄四日市駅(現JR四日市駅)から名古屋方面に向かってすぐの”善光寺カーブ”解消の為の新線建設計画。
もう一つは、上本町ー布施間の一部高架区間を含む複々線化工事計画であった。


共に、名阪間の輸送力増強には欠かせない事業であった。


名古屋線の善光寺カーブは、前身の伊勢電気鉄道が当初四日市から伊勢を目指していた名残で、四日市から何とか名古屋を目指そうと当時の三重鉄道と四日市鉄道の路線を一部買収し762mmの狭軌を1067mmの国鉄と同じ軌間に改軌しこの路線を、無理矢理伊勢に向かう本線に接続したために生じた急カーブである。


複線化はされていたものの、上り下りの軌道間隔が十分にとれず、おまけに100Rの急カーブであるため、20m級の大型車両の導入を阻んでいた。
このため、近鉄は将来の標準軌への改軌も念頭に、国鉄四日市駅乗り入れを諦め河原町ー海産道間に新線を引き路線短縮と善光寺カーブの解消を図ることにした。


上本町ー布施間は1924年(大正13年)10月31日の布施(当時の足代)ー八尾間部分開業以来、奈良線と共用してきたため、布施ー上本町間は当時600V電化区間であった奈良線に乗り入れる形となり、1500vで電化されていた大阪線の車両は50km/hの速度制限が課されており、この区間の輸送力増強の足かせとなっていた。


そこでこの区間に新たに大阪線を1500v電化で増線、複々線化、奈良線と完全に分離し、輸送力の増強を計る事業計画であった。


一連の名古屋線改良工事と同じく、供に戦前からの懸案で、戦争により計画が中断していたが用地の確保は終わっていた。


片や、短いと言えども全くの新線建設、片や運行中の路線に接する形での高架橋建設工事と、共に大工事であった。



<続く>
[2008/01/05 22:59] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第20話  

第20話 大阪高速鉄道 軌道特許申請


翌週、役員会に再提出した、特許申請案も否決され、

『遅くとも10月20日までには、最終案をまとめろ』
と社長直々に激をとばされた。


新婚だというのに、翌週からは、家に帰れないことが多くなった。
何時しか宿直室が、徹路と鉄朗の憩いの場となった。
寝食を共にするとはこの事である。
この時、鉄朗は元々野球選手に成りたかったことや、子供の頃から憧れていた、大阪タイガースの親会社である、阪神電車に入社したいきさつなどを、徹路に語ってくれた。

約束の10月20日水曜日、徹路と鉄朗が精魂込めて完成した、特許申請書類が完成し、役員会に提出された。
今度は、満場一致で可決された。


そして11月8日月曜日、鉄道省に提出された。
いみじくも日本国憲法が公布されてから5日後のことであった。


徹路と鉄朗には絶対の自信があった。
後は、佐治社長が、建設資金の工面をするだけの筈であった。
一仕事を終えた徹路と鉄朗は出向を解かれそれぞれの古巣に戻っていった。


ところが特許申請を知った大阪市が、”市営モンロー主義”を翳して猛反発。
翌年1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法が施行された。
その年の6月1日、戦時統合で近鉄の一員であった。旧南海鉄道が、新生南海電気鉄道として分離再出発を遂げた。


そして8月には長女由有紀(ゆうき)が誕生。
10月には中川駅乗り継ぎではあるが、名阪間特急が運行を開始した。


この年大阪タイガースが、戦後初めて、通算4度目のリーグ優勝を果たした。
タイガースの優勝は、終戦後間もない大阪の町にとっても希望を持たせる明るい話題であった。


タイガースに憧れ、阪神に入社した西宮鉄朗にとっては、入社後初めての優勝でもあった。
優勝のニュースを知った翌日、徹路は鉄朗にお祝いの電話を入れた。

『鉄朗さん、優勝おめでとう』
『有り難う、徹路さん…』
野球のことを何も知らなかった徹路に、野球について熱く語り、甲子園に引っ張り出したのも鉄朗だった。
『イヤ、ほんとにおめでとう。これで、大阪高速鉄道の特許も降りると良いのにね。』
『タイガースが希望をあたえてくれたんだ、僕たちの大阪高速鉄道にもきっと特許がおりるよ』
『そうだね、きっとそうなるよね。』
『きっと…、電話有り難う徹路さん、又合いましょう』
『それじゃまた』


その後待てど暮らせど鉄道省からは何のお沙汰もない。
そうこうしているうちに、翌年1948年(昭和23年)になって、大阪市が、大阪高速鉄道と同じルートで地下鉄5号線(・千日前線)の計画を立て市議会に計っていることが判明、そこで急遽阪神と協議、近鉄が独自で上本町から難波まで難波線を建設し、阪神は伝法線を西九条経由で難波まで延伸する計画に変更、早急に特許申請をやり直すことになった。
またしても、徹路の出番である。


係長になっていた徹路は3人程の部下を付けて貰い、万全の構えで延伸計画と特許申請書類を準備した。

唯一、佐治社長から、注文が出たのは、
『いいか阪神は必ず来る、難波駅で我々と手を繋ぐ、だから行き止まりの終着駅にしては成らん、阪神側につなげられるよう途中駅構造で計画しろ』
と言う条件だった。


今度は、3ヶ月で計画書が完成、役員会も通過したが、阪神電車内の意見がまとまらず、申請が遅れた。その間徹路は4月から名古屋線の播磨川分岐ー揖斐川分岐間の複線化工事の指揮を任され、現場所長として赴任した。
現場の所長に就任してからも、鉄朗と連絡を取り合い、両社の打ち合わせ会議には帰阪し必ず出席していた。


複線化工事は7月21日に完成した。久しぶりに我が子の顔を見に若江岩田の社宅に帰った。


チョット見ない間に長女は見違えるように大きくなっていた。


8月初め両社による最後の打ち合わせが行われ、供にそろって、役員会に承認申請のため提出された、そして9月1日にそろって特許申請しこの日をもって、大阪高速鉄道も解散することとなった。

提出が終わった翌日、大阪市が千日前線の軌道特許を申請した。それからが長い道のりであった。



<続く>
[2008/01/04 12:48] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第19話  

第19話 初めての帰宅と新婚生活


その日初めて、新居である社宅に帰宅したのは、8時過ぎであった。裸電球がともった玄関に立ち、ガラス戸を開けて、
『ただ今』と言ってみた。


すぐ脇の台所から、妻梨花が『お帰りなさい』と言って割烹着を脱ぎながらいつもの笑顔で現れ、居間に両手をついて出迎えてくれた。
台所からは、サンマの良いにおいが立ちこめていた。


『となりの奥さんに教えて貰って、近くの市場でサンマを買ったの』
『チョット焦がしたけれど、食べてみてください。』
気まずそうにチョット照れながら彼女は言った。

『そう…、そう言えばサンマの季節になったんだな。』
徹路は何を言って良いのか判らず、とっさにそんな事を口走った。
『私も、生のサンマは初めてなので、偉く焦がしてしまったの…』
『気にしなくて良いよ…』
そう言いながら、徹路は靴を脱ぎ、居間に上がって上着を脱ごうとした。

『私が…。』

そう言って、梨花が後ろに回って、上着を脱がせてくれた。

徹路は何となく、妻をめとった実感に包まれた。
翌朝、台所でトン々々と言う包丁の軽やかな音と、味噌汁の良い香りで目が覚めた、時節柄、漬け物と、味噌汁と玉子焼きと言う質素な朝食であったが、徹路は久しぶりに家庭の温かさを満喫したような思いに駆られた。


出がけに、

『今日から忙しくなるので、帰れるかどうか判りません』
『夕方、お隣に電話入れます。』
そう言って.出かけた。


梨花は、チョット不安そうに、でもすぐにいつも通りの笑顔に戻って、
『行ってらっしゃい』

と言って、送り出してくれた。


本社では、社長が待ちかまえていた。
『布施君、もう4ヶ月経つぞ、まだ申請書類は完成しないのかね?』
『申し訳ありません』

実は3ヶ月目の8月末に、一度原案を役員会に提出したことがあった。しかし、

『これでは、特許はとれても、実際に建設が難しい、再考しろ』
と言って突き返されていた。

徹路は、すっかり新婚気分も吹っ飛び製図台の前に飛んでいき仕事に没入した。

夕方5時を過ぎてから、梨花との約束を思い出した。


自分の席に戻って、お隣の布施駅勤務の佐竹さんのお宅に電話を入れた。

『はい、佐竹で御座います。』
『今晩は、お世話になっています、となりの布施です。』
『申し訳ありませんが、家内をお願いします。』
『はい、はい、しばらく待ってくださいね。』


そう言って、ガラガラと引き戸の鳴る音がして、しばらくして、


『もしもし、梨花です』


といつもの、元気な声が聞こえてきた。


『梨花さん…、済まないけど今日は遅くなりそうなので、先に食事を済ませておいてください。』
『…、ハイ、判りました…』

少しがっかりしたような声に変わっていた。


『ジャー、宜しく。』
徹路は、電話を切って、仕事に戻った。


10時頃帰宅すると、。玄関脇の居間からラジヲが聞こえていた。


『ただ今』と言っても変事がないので、障子を開けて玄関脇の居間に上がってみると、慣れない土地でのひとりぼっちの家事仕事で疲れたのであろう、梨花がラジヲを聞きながら居眠りをしていた。

上着を脱ぎ衣紋掛けかけにかけながら、もう一度
『ただいま、』と言ってみた。

『…お帰りなさい、いけない私ったら居眠りしちゃったのね。』
『そんなところで眠ってしまったら風邪引くよ』
『風呂は?』
『もう十時過ぎているし、銭湯も終わったから』
『嗚呼いけない、もうそんな時間だったのね。』
『おかず温め直します。』
『済まない…』


お櫃のご飯はもう冷めていた。



<続く>
[2008/01/02 16:26] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第18話  

第18話 徹路の結婚


阿倍野の近鉄本社内に出来た大阪高速鉄道は活気にあふれていた、少ないスタッフは徹路を筆頭に全て20代の若者達だった。


毎朝早くから、夜遅くまで、時には激論を戦わせながら、全員一丸となって、戦後復興、大阪復興の為に良い仕事をしようと頑張った。
そんな毎日を過ごしていたある日、実家から一通の手紙が届いた。”9月1日の日曜日に近くのお宮様で式を挙げる、披露宴は自宅で身内の物だけを招いてささやかに行う。ついては、新居を探しておけ、準備が必要だったら、寿美を差し向ける”という内容だった。


取りあえず、そのことを、上司である山本本部長に報告した。


『そうか、君もやっと結婚するか』
『や、おめでとう、式には俺も出席するからな』
『有り難う御座います…それが…、本部長、時節柄、式は実家で身内だけで行う事になりまして…』
『そうか…』
『まあ、お祝いだけはさせて貰おう』
『有り難う御座います』
『で…、新居はどうする?』
『ハイ、それが、ご存知の通り大阪高速鉄道の準備で忙しい物で…』
『そうか…、判ったワシから、総務部長に社宅を準備するように言っておいてやろう』
『申し訳ありません、有り難う御座います。』


部長の骨折りで、若江岩田駅に隣接した社宅に入れることになった。


8月の初め、母、寿美が準備に来阪した。空き屋だった、社宅は荒れていたが、窓ガラスと屋根と床だけは修繕してくれていて、雨風は防げる状態だった。


流しのついた4畳半の台所と、4畳半の居間、それに6畳間、それに便所。


風呂など当然無い、近くの銭湯を利用することになる。
入居の準備と言っても、終戦間もない頃、今のように町中に物があふれている時代ではない。


母は独身寮の、徹路の部屋に泊まって、慣れない大阪で布施や、鶴橋の闇市を回って、鍋釜食器、盥、洗濯板などの日用品を集めてくれた。


8月25日の日曜日に、妻となる梨花が、校長に連れられて、製材所のトラックに乗って荷物を運んでやってきた。

荷物と言っても、タンスと、鏡台とみずやと布団と身の回りの物だけ。

梨花は相変わらずの笑顔で少し照れながら荷物を運び込んだ。


3時間ほどいただけで、吉野に帰っていった。
当時は舗装もしていないような酷いガタガタ道。往復に9時間近く掛かっての、大仕事であった。


9月1日前日から実家に帰っていた徹路は、紋付き袴、姿。梨花は文金高島田というおきまりのスタイルで式を挙げ、実家に帰ってささやかな宴を張った。その晩は実家に泊まり、翌朝一番電車で阿倍野の本社に出社した。


妻梨花は母寿美に連れられて、翌日、電車で新居に入った。


<続く>

[2008/01/01 22:28] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)





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