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【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第17話  

第17話 徹路の縁談。


そんな最中29才になった徹路に縁談話が持ち込まれた。


吉野の実家から、手紙で、


”小学校の校長がお前の評判を聞き、是非うちの娘をお前にと言ってきた、ついては来週の5月12日の日曜日にお見合いをするので、戻ってこい!”


という内容だった。
久しぶりの帰郷も予て前日の11日の夜遅く実家に戻った。


お見合い相手の梨花は1926年(大正15年)6月7日生まれで9つ年下、もうすぐ二十歳になる女性だった。


器量は十人並み、であったが、笑顔が可愛かった。
それに礼儀正しく、受け答えに聡明さが感じられた。


頭の片隅に教え子祐子に対する思いもあったが、

『お前も29才にもなって、1人でおるのはいかん。』
『それでは、エエ仕事もでけんぞ!』
『ワイがお前の年には、お前ら4人の子供の親になっとった。』
と父庄一から諭された。

徹路は、小学校の校長の3女梨花を貰うことにした。


翌日からは又仕事である、婚礼の日取りなどは父庄一と校長に任せることにして、その日のうちに、独身寮に戻った。


<続く>
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[2007/12/29 22:25] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第16話  

第16話 大阪高速鉄道と2人の人物


西宮鉄朗もある意味努力の人であった。


1923年(大正12年)2月尼崎に生まれた西宮は、子供の頃からの大阪タイガースファンで、野球選手を志、名門浪華商業学校に進学した。西宮の進学した1935年(昭和10年)春同校は系列校で起こった不祥事のために春の選抜を辞退していた。


野球部員たちは、夏の大会での汚名返上に向けて、必死で頑張っていた。鉄朗もレギュラーを目指して、毎日練習に明け暮れていたが、そんな鉄朗に悲劇が起こった、1年の3学期、新チームでレギュラーの座が決定し”今年こそは”と頑張っていたところで肩を壊してしまったのである。


野球部を退部せざるをえなくなり、一時は学校もやめようかと悩んだが、一念発起、今度は大学を目指して猛勉強を開始した。そして1939年(昭和14年)大阪商科大学(現大阪市立大学の前身)付属の高等商学部に見事入学、1943年(昭和18年)同大学予科に入学1945年(昭和20年)戦時の特別処置で繰り上げ卒業、陸軍に入隊したが内地でそのまま終戦を迎え、退役同年12月、野球部の先輩の伝で子供の頃からズーと憧れてきた大阪タイガースの親会社である阪神電気鉄道に入社した。


翌年1946年(昭和21年)4月1日終戦から1年も経っていない戦後の混乱期に近鉄と阪神を結ぶ鉄道を実現するため両者の共同出資で大阪高速鉄道が設立された。


確かに、戦後復興の為に東西を結ぶ路線は必要ではあったが、戦災の復旧も完全には終わっていない時期に、莫大な費用の掛かる新線を建設しよう等とは常人なら思いもよらない時期である。

これには、当時の近鉄社長佐治一徹(さじいってつ)の強い思いがあったからに他ならない。


佐治一徹という人は、1911年(明治44年)1月奈良市の造り酒屋の長男として生まれた。1931年(昭和6年)に旧制大阪工業大学に入学(卒業時は大阪帝国大学)卒業後は、大阪電気軌道に入社、めきめき頭角を現し、子会社参急による名古屋の関西急行電鉄、の吸収合併、その参急を合併して関西急行鉄道を設立、今の近畿日本鉄道にいたるドラマの立役者の1人である。

戦前戦後を通じて、関西財界に広い人脈を持ち、また影響力を発揮した人物でもあった。


彼は、『鉄道は公共財であり、且つ営利事業でもある。そうである以上儲からなければ意味がない、言い換えれば社会から重宝がられる存在でなければならない!』
と言い続けてきた人物である。だから、戦後一年も経っていないこの時期に、敢えて、近鉄ー阪神連絡鉄道の実現をブチあげたのであった。


阪神側からは、入社仕立ての西宮鉄朗と数名が出向社員として派遣されてきた。


そして、新会社設立から間もない5月、揖斐・長良川鉄橋の復旧工事が完成し本社に帰ってきた徹路も、社長命令で新会社に出向と成った。


これが、西宮との最初の出会いであった。


徹路達の仕事は、近鉄、阪神両者で合意の成立した阪神野田駅と近鉄鶴橋駅を難波経由で結ぶ新線の建設準備とその為の軌道特許申請書類を作成することであった。


徹路は路線の詳細計画と基本設計など、技術関連担当。
鉄朗は事業計画、と申請書類を作成する事務方の仕事である。


鉄朗にとっては、初めての大仕事、
徹路にとっては念願の”新規路線”の基本設計である。


『金のことは心配するな、お前達は”ご利用下さる乗客の皆様”の期待に答えられる様、立派な鉄道を計画しろ。』


そう言って、佐治社長は激励した。


<続く>
[2007/12/27 21:48] 鉄道小説 | TB(0) | CM(1)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第15話  

第15話 終戦と復興


終戦間近の1945年(昭和20年)7月24日名古屋線の揖斐・長良川橋梁が艦載機による急降下爆撃で被爆不通となった。


徹路は早速同現場に派遣され、対策を検討、国鉄・関西本線の鉄橋を利用させて貰うことを鉄道省に提案・申請、即日工事にとり掛かった。この時も旧伊勢線の遊休資材が役にたった。


突貫工事で、連絡線を建設、国鉄関西本線の鉄橋に接続、同時に、同橋梁に架線を付設、電化した。


資材難のおり、復旧工事と言えども、貴重な、鉄(線路)や、銅線を使用する許可が下りたのは、近鉄名古屋線が重要な路線であったからである。


この事は地図を見れば一目瞭然、四日市ー津間は、併走する国鉄伊勢線(伊勢鉄道)が1973年(昭和48年)に開通するまで近鉄が最短ルートで結んでいた。さらに1959年(昭和34年)の伊勢湾台風襲来以前は現在と違って国鉄と同じ軌間1067mmの狭軌。四日市ー津間の重要な物資輸送路線であったからであろう。


この頃になると、徹路は独身寮に帰ることもなく、本社技術部に24時間態勢で、張り付いて、空襲の被害に備えていた。



同年8月15日、天皇陛下の玉音放送で永い戦争に終止符が打たれた。


敵襲は無くなったものの、近鉄でもかろうじて全線で電車の運行が行われていただけで、停電で電車が急に止まる事などしょっちゅう、大阪、名古屋近郊の駅舎はかろうじて外観を保っているだけ、窓ガラス等、空襲の爆風と、戦後の盗難で殆ど無い状態。走っている電車も、勿論窓ガラスが満足にはまっていない状態、それでも、闇物資を担いだ乗客達で満員の状態だった。


戦後も、徹路の多忙は続いた。


終戦直後の極端な物資不足で、銅線で出来た架線や電線、線路を枕木に止めている犬釘や、ひどいときは枕木まで盗難に会う事件が多発していた。


盗難は深刻な問題で、始発電車が予定通り発車できないこともしばしば発生していた。


その為に本社の技術本部や事業部本部の職員が駆り出され、全員が交代で毎晩、2人一組となり、カンテラ片手に沿線の警戒に当たっていた。


そんな中、空襲で壊れたままになっていた揖斐長良川鉄橋の復旧工事現場に再び出張、今度は所長として同橋梁の修復工事の指揮を執ることとなった。



この年の12月、後に阪神電鉄の社長そして徹路の終生の友となる、西宮鉄朗(にしみやてつろう)が阪神電気鉄道に入社した。


<続く>
[2007/12/24 16:57] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第14話  

第14話 叔母奈賀子の死


その後、鼓が浦駅での複線化工事現場での活躍をへて、翌年4月からはアベノの本社技術部での勤務となった。毎日の通勤は楽では無かったが、実家から上市駅までは製材所に向かうトラックに便乗し、帰りも同じトラックに乗せて貰った。仕事が遅くなるときは、宿直室で仮眠を取った。


部内で徹路の存在が重要になるにつれ、上市からの通勤ではどうしようも無くなり。若江岩田近くの独身寮に入った。
1944年(昭和19年)6月1日軍部指導の戦時体制下、関西急行鉄道と南海鉄道が合併し近畿日本鉄道となった。


この年の8月グァム島が陥落し、10月レイテ沖海戦で海軍の主力艦隊が大敗し太平洋上での制海権・制空権を完全に米軍に明け渡した形となり勝敗は事実上決した形となった。
そしてグァム島飛行場の完成とB29の本格運用開始で、それまでのB17主力の中国大陸からの爆撃に代わりB29長距離爆撃機による本土空襲が日本全土を襲うようになってきた。
12月には名古屋が翌年1945年(昭和20年)1月には大阪が初空襲を受ける事となる。


この間、資材難も益々切迫し、併走する関西本線の奈良ー王子間は8月に単線化し線路を供出、近鉄も翌年2月には南大阪線の尺度ー樫原神宮間の線路を供出させられ、この間は単線運転区間と成ってしまった。


そして徹路にとって運命の3月10日を迎えるこの日未明東京大空襲を受け、叔母奈賀子の住む、浅草橋付近も空襲に遭い、折からの強風にあおられ、瞬く間に日は広がり、消失家屋26万強、死者8万人弱負傷者11万人を出す大惨事となった。この日奈賀子は夫の帰りを待っていた、夕刻夫から

『遅くなるので先に寝ておきなさい。』

と電話があり、1人で床についていた。


前年の1944年(昭和19年)11月に初空襲を受け、日頃夫から1人で疎開するようにと勧められていたが、

『1人で疎開するのはイヤ、私は此処で毎日貴方の帰りを待つの』

と言って疎開を断っていた。


そんな叔母を悲劇は襲った。火は翌日になっても収まらず、翌日夕刻夫春木が、帰宅したときには、辺り一面焼け野原で火がまだくすぶっていたと後になって聞かされた。
教え子祐子は幼子を抱え、祖父の実家がある、長野の上田に疎開していたと聞いたが、その後消息が無くなった。


<続く>
[2007/12/23 22:05] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第13話  

第13話 現場での活躍


翌日は、日曜だったので、朝から洗濯である、洗濯と言っても今のように電気洗濯機など無い時代、たらいと洗濯板を用いた手洗いである。
朝から、洗濯場は土工達でイッパイだった。土工達に混じり、フンドシ、作業衣を洗い、物干竿に干した。


部屋に戻り、掃除と身の回りの片付けを済ませ、お昼は場の食堂もお休みなので、近くの伊勢神戸の町中に出、駅前の食堂で適当に済ませた。
田舎町のこと、満足な書店もない。


仕方なく駅前のたばこ屋で、切手と、はがきを買い、恩師に近況報告と、専門書のむしんのはがきを書く事にした。


午後は、主任から預かっていた事務所の鍵で事務所を開け、施工図面を入念にチェックした。
気がついたら、7時近くになり、周囲が薄暗くなっていた。


翌週から、本格的に仕事に掛かった。


仕事の内容は、現場の監理であり、測量も重要な仕事であった。実際は下請けの監督の補佐と言ったところ。杖をついて、びっこを引きながら現場にでては、初めのうちは、

『チンバの兄ちゃん、危ないから向こうへいっとき。』

などと、土工にからかわれたりもした。


時が経つにつれ、徹路の実力が発揮されだした。
時として、施工図には、”どうやったらこうなるんだ”という箇所が出てくる物である。


下請けの現場監督が図面片手に頭を抱え込んでいるときこそ徹路の出番である。そうしたとき徹路は素早く解決策を見いだし、所長に申し出て施工図の修正を行った。


コンピューターの無い時代、そろばんと計算尺片手に製図台に向かい、修正作業は深夜に及ぶことも少なくなかった。


徹路が修正を行った箇所は、必ず徹路が施工に立ち会った。
『監督さん、これどうやったらええんや?』
何時しか、現場の土工達からはこうよばれるようになっていた。


徹路は、不自由な足で、鉄筋組をやって見せたり、鮮やかな手つきでノコギリを操り、複雑な形状の型枠を作って見せたりした。


若者に多い,理屈だけで相手をねじ伏せようとする尊大な態度など微塵もなく、謙虚で居ながら説得力のある発言、そして何より実直で熱心な態度が現場の土工達にも伝わり、工事が完成に近づいた8月初めには、誰からも尊敬され、信頼されるようになっていた。


『お早う、監督さん、良い天気やな』『監督さん、今日は暑なりそうやな』『明日は日曜やな、監督さん久しぶりに家帰るンカ?』など、朝の洗面所で気軽に声をかけてくれるようになった。


<続く>

[2007/12/22 20:26] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第12話  

第12話 現場復帰初日


翌3日は土曜日であった。


朝の朝礼で正式に、下請けを含む工事区の全従業員に紹介された。
杖をついた、徹路の姿に笑い声も聞こえたが、徹路は構わず、全員の前で、名前と、簡単な抱負を述べた。


初日は、井上主任について、各工区の下請け現場を見て回った。


『副所長』
『なんや…?、副所長はやめてんか』
『どう呼べば宜しいでしょうか?』
『井上はんでええがな』
『井上さん、工事の資材はどうしてるんですか?』


この頃になると、そろそろ鉄や、コンクリート等の資材が入手しづらく成っていた。


『エエ質問やな』
『それはやな、去年伊勢線の新松阪から大神宮前の間を廃線にしとるやろ』
『はあ、知りませんでした』
『ほいで、ついでに、江戸橋から新松阪駅の間も単線にしたんや』
『はい』
『それでやな、撤去して浮いた線路を今こないして廃物利用しとるちゅう訳や』
『はあ、そうだったんですか。』


戦時中も増線や改良工事が続けられたのは、こういう風な近鉄のやり繰り上手の為だった。


当日は土曜日でもあり3時頃、早々に仕事を切り上げ、下請けが伊勢神戸駅(現在の鈴鹿市駅)に近い料亭で歓迎会をしてくれた。


徹路は、酒も煙草も駄目なので、もっぱら、食べるだけであったが。年配の古参芸者に『あら、お兄さんお酒駄目なの、だったらこっちの方は?』等といって逸物を握られたりしてからかわれたり、下請けの、土木会社の現場監督に、説教めいたうんちくを聞かされたり。終いには、『歌でも歌えと言われ』、仕方なく、吉野の筏流しの木遣り歌などを披露したりした。
2時間ほどの、大宴会の末やっとお開きとなった。


後にも先にも、宴席に出たのは、これが最初で最後だった。



<続く>
[2007/12/20 20:04] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第11話  

第11話 伊勢若松の名古屋線改良工事現場。


出張先は伊勢若松の複線化工事の工区だった。


ほぼ5年前の1938年(昭和13年)6月参宮急行電鉄が津ー江戸橋間を開業、続いて同月関西急行電鉄が桑名ー関急名古屋間を完成。伊勢中川、江戸橋と2回乗り換えが必要ではあったが、曲がりなりにも、上本町ー関急名古屋間は1本の鉄路で繋がっていた。その後同年12月参急が伊勢中川ー江戸橋間を標準軌から狭軌に改軌、伊勢中川で一度乗り換えるだけで上本町から関急名古屋までのルートが完成していた。


1940年(昭和15年)には参急が関西急行電鉄を翌年1941年(昭和16年)には大阪電気軌道が参急を合併し、徹路の入社した関急急行鉄道が発足し、国鉄以外のルートで一枚の切符で上本町から名古屋まで行ける様になっていた。


しかし、紆余曲折を経てのルート、名古屋線とは名ばかりの、継ぎ接ぎ路線であった。
途中には不自然なカーブや、単線区間も多く、とても東海道線と互角に戦える路線ではなかった。


伊勢若松までは長い道のりである。市電で上六に向かい。自社線の急行で伊勢中川まで向かい、名古屋線に乗り換えて4時間位かけ、目的地の伊勢若松の現場事務所に着いたのは、午後3時まえであった。


この時、徹路は初めて青山峠・青山トンネルを体験した。徹路は、図書館でみた、ロッキー山脈越えの写真集を思い出し、まだ見た事のない彼の地の有名な峠に思いをはせた。


『日本にもコンナ所があったんだ!』


この時の強烈な印象が、大陸横断鉄道の列車を範とした後の初代ビスタカーのデザイン決定の決め手となった。


現場事務所のバラックでは、所長の阿部係長と副所長の井上主任が到着を待ってくれていた。井上主任の向かいに席を与えられ、早速工事の進捗状態の説明と、明日からの仕事の分担を決められた。


一応新人でもあり、ある程度の期間は副所長である主任について、のんびりさせてもらえるのかなと思っていたが、早速下請けの一つを預かることになった。


打ち合わせの後、何軒かある下請けの工事事務所全てに案内され、それぞれの会社の現場責任者に紹介された。


4時半時頃から、下請けを交えて、その日の報告と翌日の工事予定の打ち合わせ会議があり、6時頃にやっと宿舎である隣の場(はんば)に案内された。ドラム缶の風呂に、土方(労務者)の人たちが代わる代わる浸かっていた。


宿舎は8畳ぐらいのバラック小屋、所長と副所長と徹路3人の相部屋であった。
食事は別棟の食堂で所長、主任それに下請けの建設会社の労務者達と一緒に取った。
食後2人は『明日の打ち合わせが残っている』と言って事務所に帰った。


『コンナ所とは思わんかったやろ』

先に場に帰ってきた主任が申し訳なさそうに言った。

『イイエ、戦地の野営地に比べれば天国です。』
『そうか、?』
『まあ…、此処なら腹一杯食い物はあるし…』
『ヘエ…戦地は食いもんも無いんか。』
『…』
『所で、君は酒は飲まんのか?』
『ハイ、酒も煙草もたしなみません』
『そうか、酒も、煙草もか…』
『ワイは、これがないと眠られへん。』

そう言って、焼酎の入った一升瓶を持ち出した。

『ほな。しゃあないなー、まあエエわ、…手酌でと…。』

主任は、茶碗酒を2杯ほどあおって床についた。



<続く>

[2007/12/18 22:11] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第10話  

第10話 名古屋線工事現場出張

4月1日、真新しい背広にワイシャツ、ネクタイ姿に杖という出で立ちでアベノ橋の近鉄本社に出社した。


戦時中でもあり入社式もなく、出社早々、先刻の杉山主任から真新しい作業服、安全靴、ヘルメット、を渡され、一通りのレクチャーを受けただけで、技術部に案内された。


技術部の奥の机に、山本部長がいた。
『布施君を、お連れしました。』
山本部長に案内すると杉山はそそくさと去っていった。


『お早う御座います。ヨロシクお願いします。』
『待ってたぞ、布施君』
『早速だが、君の上司を紹介する。』
『名古屋君来たまえ』
『はい、お呼びですか』
『紹介する今日から働いて貰うことになった、布施君だ当分君の所で預かってくれたまえ』
『初めまして布施徹路と申します、ヨロシクお願いします。』
『名古屋です宜しく』
『名古屋君後は頼むぞ、ワシは社長に呼ばれているからチョット出かけてくる』


山本部長は、そそくさとこの場を離れていった。


名古屋課長は部下十人ほどの建設課の課長だった。
徹路は、課長を頭に、向かい合った席の一番入り口よりの席を与えられた。4月1日だというのに課長以外は誰もいなかった。


聞けば、係長以下は、建設現場事務所に所長やスタッフとして出向いているとのことだった。


課長から、早速明日の午後から名古屋線の改良工事の現場に2週間ほど出張するように指示を受けた。そして、”目を通しておくように”と分厚い建設仕様書、要領書、を渡された。
隣の設計課や、車両技術課は、一日中、電話が鳴り響いて、忙しそうだった。


この日は、出張の用意もあるだろうと、4時頃には帰宅を許された。
”歓迎会でもあるかな”と少し期待はしていたが、拍子抜けだった。


翌朝、リュックに着替えや、身の回り品を詰め込んで、本社に出社した。
その朝、経理課に立ち寄って仮払いを受け、名古屋に向かって出発した。


<続く>

[2007/12/16 15:04] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第9話 


<第9話 近鉄入社>


その年は、従軍で負った足と心の傷を癒すことに専念し、年末には、軽作業程度なら山仕事の手伝いも行えるまでに体力も回復していた。


その年(1943年昭和18年)の正月は久々に、家族全員が集うことが出来た。


恩師への年賀状に、近況と供に『体力も気力も戻ってきたし、そろそろ定職に就こうかなと考えております』旨を書き添えた。


翌年3月、帰還後半年が過ぎようとしていた頃、恩師から一通の手紙が舞い込んだ。


”君もよく知っている関西急行鉄道(現近畿日本鉄道)にいる、僕の知人に君のことを話してみたら、『是非、我が社で迎えたい』と言ってきた、ついては3月15日月曜日、同封の紹介状を携えて、上本町の関西急行本社の建設本部長 山本 武 氏を訪ねるように”
と言うような内容だった。


戦時でもあり、そうでなくとも就職難のおり、体の不自由な身で、第一線の技術者に復帰出来るとは考えても居なかった。しかし、徹路の思いとは裏腹に、内地の企業にとって技術者の不足は深刻であった。 


3月15日朝の電車で大和上市からその年の2月新しく本社の移った阿倍野橋の本社へ向かった。軍服姿で杖をついている徹路は、電車の中ではひときわ目立った存在だった。


8時30分の始業まで、ロビーで待ち、事務員に、応接室へ案内された。
しばらく待つと真っ黒に日焼けした、がっしりとした体格の、初老の男が現れた。


『君が、布施君か?』
『ハイ、初めまして布施徹路と申しますヨロシクお願いします。』ぶっきらぼうだが、暖かそうな人だった。
『まあ、かけたまえ。』
『早速だが、君のことは斉藤君から詳しく聞いている。』
『ハイ…』
『あすから、いや今日からでも我が社で働いて貰いたい所だが…』徹路をじっくりと眺め、一呼吸置き
『まあ…、切りの良いところで、4月1日から僕の所に来て貰うことにしよう』
『はい…』
『所で、軍服はイカンゾ、軍服は…』
『ハイ、済みません。他に、洋服を持ち合わせておりませんでしたもので…』
『そうか…、帰りに、となりのデパートに案内させよう。』
『じゃー、今日の所はもう帰って良い…。』
『イヤ…少し此処で待ってなさい。』
『はい…』

彼は、応接室をそそくさと後にした。


しばらくして総務課の杉山という主任が、現れた。
『本部長の指示でご案内します。ついてきてください。』
つっけんどんで、無愛想な人だった。


その日は、背広とワイシャツの採寸をし家路についた。


<続く>



[2007/12/11 20:56] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第8話  

<第8話 従軍そして帰還>


1941年(昭和16年)9月徹路の配属された鉄道第九連隊は泰緬鉄道(たいめんてつどう)建設のため、ビルマに派兵された。この年の12月8日日米開戦、すなわち太平洋戦争が始まった。


既に1938年(昭和13年)4月に日本を出航した第5連隊がタイのバンコクに上陸タイ側からの着手準備は終わっていた。徹路の配属された第9連隊のビルマ到着を待って、開戦の翌年1942年(昭和17年)タイ側、ビルマ側同時着工で工事が開始された。


泰緬鉄道の建設現場は徹路が思い描いていたような現場では無かった。仲間は食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリア等の熱病でバタバタと倒れ戦病死していった。


正確な地図も無い山岳地帯を偵察機の航空写真を下にルートを決め、測量しながら、図面を起こし後は人海戦術でがむしゃらにツルハシと”もっこ”で土を運び、路線を延ばしてく工事であった。セメントはジャングルの湿気ですぐに使えなくなり。殆ど、材木と石積みで工事を進めるほか無かった。


徹路は工事が始まって間もない1942年6月資材を運んできた貨車の荷役を指揮中に荷崩れ事故で右足に複雑骨折の重傷を追った、”食料、医薬品供に乏しく、現地では.十分な治療も受けられない”との連隊長判断で、すぐに港に移送、運良く寄港していた病院船で手術をし、7月の帰りの補給船で内地に送還、同年9月内地に無事帰還出来た。その 後泰緬鉄道は多数の犠牲者を出しながら、翌年1943年10月に完成した。戦地に残された連隊の多くの仲間達は、二度と内地の土を踏むことはなかった。


徹路は内地帰還後陸軍病院に入院、1ヶ月後に退院し、同時に除隊となり、暫くは故郷の吉野に戻って体を休めることにした。


除隊の報告をするため恩師を訪ねた、教授は半地下のかび臭い研究室にいた。

『ただ今戻りました』
『うん、…』
『無事で良かった』
『どうだ、今度こそ研究室に戻ってくるか?』
『…、暫くは故郷に帰って、静養しようと思っています。
『そうか、そうした方が良い…』
『いつでも相談に乗ってやる、又訪ねてこい。』
『ハイ有り難う御座います。』
教授は、目にうっすらと涙を浮かべていた。


帰りの途中浅草橋の叔母の家を訪れた。


『ごめん下さい』
『ハーイ…』
『布施徹路、ただ今戻りました』
『テッちゃん、テッちゃんでしょう、ほんとにテッちゃんなのね』
『戻ってたなら、どうして連絡くれなかったの?』
『申し訳ありません、帰還は機密だったので』
『いいのよ、無事でいてくれて…その杖、どうしたの?』
『戦地で、負傷して…』
『大丈夫なの?』
『たいした怪我じゃないので』
『それなら良いのよ、とにかく無事に帰ってくれておばさんホッとしたわよ』
叔母は、涙を流して無事の帰還を喜んでくれた。


別れ際に徹路は思いきって切り出してみた。


『あの…、ユウちゃんは?』
『それがねー…、テッちゃんが出征してから、親の薦めで海軍の、将校さんとお見合いしてね、…それですぐに結婚してね。』
『なんだ、そうだったのか、おばさんの手紙は、病院船にいたとき届いてたけど、ユウちゃんはどうしたかなと思ってたんだ、良かったね。』
自分で切り出しながら、取り急ぎ、この話題から離れようとわざと素っ気なく答えてしまった。
『それが…、そうじゃないんだよ』
『そうじゃないって?』
『今年になって、ついこの前だよ』
『戦死の知らせが来てね。』
『未亡人に成っちまったんだよ』


祐子の、ご主人は海軍の青年将校だったが、1942年6月5日のミッドウェー海戦で戦死したのだった。


『おなかに赤ん坊が居てね』
『旦那さんは今度帰った時は、生まれた赤ん坊に会えることを楽しみにしていたそうだよ。』
『なんなら会ってくかい』
『茗荷谷のお宅でご主人の帰るのを待ってたんだよ』
『今もそこに住んでる筈だよ、案内したげても良いよ』
『…ヤッパリよしておく、おばさんから宜しく伝えておいて。』


徹路は、時の流れの早さと、戦争の無情さに、何とも遣る瀬ない気持ちになった。


これが叔母との最後の別れだった。


<続く>

[2007/12/09 16:07] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第7話  

<第7話 鉄道連隊入隊>


1940年4月大学4年になった徹路は、斉藤教授に呼ばれた。

『布施君、君はこの先将来どうする積もりかね?』
突然の質問だったので、徹路は驚いた。


『…はい、今は4年生になったばかりですし…』
『そうか、まだ考えてなかったか。』


徹路の頭の中では、子供の頃の吉野鉄道の建設工事の様がまぶたに焼き付いていた。


『…はあ』
『世の中はまだ不景気だ、大学に残ってはどうだ。』
『…はあ』
『君は、我が研究室始まって以来、いや我が学部始まって以来の秀才だ。』
『恐らく来年の卒業式は君が総代を務めるだろう』
『研究室に残って見てはどうだ?、そしてゆくゆくはワシの後を継いでくれないか。』
『いやそんな…、どうも有り難う御座います。』


その後も、ことある毎に教授に呼ばれ、残るようにと勧められた。
翌年1月徹路は斉藤教授のお宅に年賀に訪問した。


『良く来てくれた、さあ上がりたまえ。』
部屋に案内された。


『先生、新年おめでとう御座います、本年もヨロシクお願いいたします。』
『堅苦しい挨拶はいい、まあゆっくりしたまえ』

雑談のあと、徹路は切り出した。


『じつは、将来のことで先生にお願いがありまして』
『なんだ、研究室に残る決心がついたか?』
『いえ、実は…、鉄道連隊に入ろうかと考えております。』
『鉄道連隊?…津田沼にあるあの鉄道連隊か?』
『はい』
『鉄道連隊なら、友人もおるしよく知っておるが、どうして又?』
『はい、子供の頃、吉野鉄道の建設工事をみて、その印象が頭から離れません。私も鉄道建設に携わって見たいと考えております。』
『そうか、大阪電気軌道なら知り合いもおる。』

『いいえ、そうでなくて、海外に出て、未開の地に自分のこの手で鉄道を引いてみたいのです。』
『それで、先生が、鉄道連隊にいらっしゃるご友人のことをよくお話になっていたのを思い出しまして…、ご紹介いただけないかと。』
『満鉄では駄目なのか?満鉄なら沢山友人がおるのだが。』
『…』
『…判った、余り気乗りはしないが、一度聞いてみてやろう。』
『有り難う御座います、宜しくお願いします。』


それから、一ヶ月ほど経った2月のはじめ。
徹路は教授室に呼ばれた。


『失礼します。』
『ああ、布施君か。』
『まあ、かけたまえ。』
『早速だが、津田沼の友人から返事が来た。』
『はい』
『喜んで君を迎えるそうだ。取りあえず少尉ということらしい。それで良いか?』
『有り難う御座います。』
『卒業式が済んだら、これを持って連隊に出頭しなさい。』

封筒に入った、入営提出書類と津守中佐の手紙が入っていた。

帰って、叔母の奈賀子に入隊が内定したことを伝えた。


『おばさん、卒業したら僕軍隊に行くよ』
『テッちゃんたら、又冗談いって。』
『冗談じゃ無いんだよ、本当なんだ』
『え…』


日中戦争は始まっていたが、太平洋戦争はまだ始まっておらず、不景気とはいえ就職口が無いわけではなかった。それに恩師の斉藤教授から研究室に残るように誘われていることも奈賀子はよく知っていた。


『テッちゃん、どうして、どうしてあんたが軍隊に行かないといけないの?』


叔母は、目に涙を浮かべながら、必死に徹路に思いとどまるように懇願した。

子供の頃からの思い、軍隊といっても鉄道連隊、しかも恩師の取り計らいで技術将校・少尉としての入隊であることを説明し、何とか叔母を宥め納得させた。


入営の支度は叔母がやってくれた。叔母は近くの西新井厄除け大使でお守りを戴いてきてくれた。


入営の日、叔母と20才になった祐子が浅草橋迄見送りに来てくれた。叔母が、周りの目も気にせず。


『きっと無事に帰ってくるんだよ、死んじゃ駄目だよ。』
といって涙を浮かべながら別れを惜しんだ。祐子はそんな叔母の肩を抱えるようにそばに立っていた。


電車が、ホームを離れて見えなくなるまで、2人はずーと手を振っていた。


<続く>



[2007/12/09 11:46] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第6話  

<第6話 一高・東大入学>


中学4年の正月、里帰りを許された徹路は奉公にでている妹2人と久しぶりの再会を果たした、妹たちと、父庄一は、進学を勧めてくれた。高等女学校出の母は何も言わなかった。ただ一言『悔いの残らないようにお前の進む道は、お前が決めなさい。』と言って泣いた。
不況の中、仕送りまでしながら安い賃金で、奉公に出ている娘2人を前にして、”高校に進学しなさい”とは言えなかった。


翌年、徹路は叔母の奈賀子を頼って東京に出た。


叔母は父庄一の一番下の妹で、祖父 信好が亡くなった年、営林署の署長の仲立ちで署長の親戚の家に里子に出されていた。その後航空技師と結婚し、浅草橋の近くに住んでいた。36才になった叔母は、子供に恵まれていなかった。夫は3才年上で田無にある軍需工場で設計技師をしていた。


子供のいなかった叔母夫婦は決して裕福ではなかったが、
『テッちゃん』といって、徹路のことをかわいがってくれた。


父庄一も、苦しい中、毎月いくらばかりかの、仕送りを送ってくれていた。


上京したその年、見事”一高”現在の東大に入学した。
徹路は子供の頃からの夢、土木技術者に向け、毎日猛勉強に明け暮れた。
そんな毎日ではあったが、徹路にも恋とは呼べないまでも、胸のときめきを感じさせるような少女との出会いがあった。


叔母の夫、田上春木が上司に頼んでくれて紹介して貰った、家庭教師の教え子 波多祐子であった。高等女学校に入学したばかりの12才だった。
『徹路お兄ちゃん』、と言って懐いてくれた。


20才の成人を迎えた1937年(昭和12年)高校4年間を無事に終え、大学本科に進むことになった。


この年の7月7日に盧溝橋事件に端を発した、日中戦争が始まった、以後1945年8月15日の太平洋戦争終戦まで8年間にも及ぶ軍部主導の永い戦時体制が続く事になった。


殆どの国民は財閥と軍部の世論誘導で
”いまも続く永い不況を克服するには、海外派兵と植民地政策しか解決策はない”
と信じ込まされていた。


高校在学中も、何度か同期生の政治談義に巻き込まれそうになったが、当時の学生にしては珍しく、酒も麻雀もやらなかったため、左右何れの学生運動にも、巻き込まれずに済んだ。


祐子は徹路の親身になった指導のおかげで、高等女学校を卒業し、見事東京女子高等師範学校に入学出来た。そして大学に進学した徹路は、波田さんの心遣いでそのまま祐子の家庭教師を続ける事になった。


その頃になると、
『私、大人になったら、お兄ちゃんのお嫁さんに成りたい』
『お嫁さんにすると約束して』
と徹路を困らせたりもした。



<つづく>



[2007/12/06 21:11] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第5話  

<第5話 徹路の故郷(その4)思春期>


吉野中学に進学した徹路の評判は日に日に上がっていった。田舎の中学とはいえ、徹路の優秀さは群を抜いていた。


翌年1930年(昭和5年)前年10月ニューヨークのウォール街に端を発した世界大恐慌の荒らしが日本にも飛び火し、昭和の大恐慌が発生、深刻な不況と成った。
そんな中、翌年1931年(昭和6年)満州事変が勃発、国民世論は一気にアジア進出、植民地主義に傾いていった。


不況の嵐はまだ吹き荒れており、徹路の学校を続けさせるため、長女幸子が、翌年には次女秋美が、桜井の材木商の大店に住み込み奉公に上がった。東北では、身売り、一家心中など多くの惨劇が起こっていた時期である。


中学4年のある日徹路は校長に呼ばれた。


『徹路、お前中学出たら、どないするつもりで居るんや?』
『ん…、でけたら、高校に進みたいとおもとる。』『けんど…うち、ビンボーやし、妹2人とも、ワイのために、桜井に奉公にあがっとるんや、もうこれ以上迷惑かけられへんしな…』
『よっしゃ、判った、ワシに任せとけ、おとうにはワシから話したる。』『お前は、うちの中学始まって以来の秀才や!このまま終わってはもったいない』『お前にその気あるんやったら、東京の高校に行かすように、ワシからおとうに言うたる。』


徹路は悩んだ、”妹2人を犠牲にしてまで、学業を続けるべきか、
世の中は、深刻な不況、大学を出ても就職口がない状況が今も続いていると言うのに。”


この頃には、叔父の子供、つまり徹路の従兄弟は7人になっていた。
相変わらず貧しかったが、7人の従兄弟達が、味方になってくれた。


しかし、とても叔父の家では勉強などする場が無く、見かねた校長が、特別に、放課後、用務員室に残って勉強することを許してくれた。


<続く>

[2007/12/04 20:00] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第4話  

<第4話 徹路の故郷(その3) 徹路の幼少期 後編>


高等小学校の頃は、あまりの辛さに、10㎞ほど離れた実家に何度か逃げ帰ったこともあった。


その度に父は
『折角預かってくれた清に済まんことしよって、そんなこって、中学に進めるか、中学出るまではお前はよその子じゃ、それまで家の敷居またいだらアカン』
と怒鳴って、母屋に入れてはくれず、仕方なく納屋でワラにくるまって一晩を過ごし、翌朝母が作ってくれたおにぎりを持って叔父の家に帰ったものであった。


そんな幼年期であったが、徹路には毎日の苦しさを忘れられる、楽しみがあった。
それは、今の大和上市駅付近で行われていた吉野電気軌道の鉄道工事を見に行くことであった。


吉野川に掛かる吉野川橋梁はようやくその勇姿を現しつつあった。、その前後の取り付け部分では土砂を満載したトロッコを工夫が押す光景を眺めることも出来た。


高等小学校入学から1年が過ぎようとした徹路11才1928年(昭和3年)3月25日に六田ー吉野間が開業、全通した。開業以来吉野駅までの全通に16年も要した最大の理由は、吉野川越えの吉野川橋梁の建設の困難さであった。


当時は上流にダムも出来ておらず、筏流しが出来るほど水量が豊富で、渇水期である冬場しか工事が出来なかった。それに、木材輸送は水量豊富な吉野川を使えば、全通前の終点六田駅まで搬出することが出来た。運送費の掛かる鉄道輸送はそこからで十分であった。


徹路が叔父の家に下宿して2年目の昭和3年に新線は開通した。


真新しい鉄路を、日に何度か木造のかわいらしい電車が一両で走っていた。
徹路にはむしろ、木材を満載した国鉄の貨車を、ボンネット型の可愛い機関車がひいていくのを見るのが楽しみであった。


徹路は辛さを忘れて、じーっと列車が通り過ぎていくのを眺めていた。



<つづく>




[2007/12/03 22:33] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)

【小説】69年間待ち続けた男、在る鉄道マンの半生 第3話  

第3話 <徹路の故郷(その2) 徹路の幼少期 前編>


両親が結ばれ、1年後の1917年(大正6年)1月10日布施徹路は生まれた。翌年11月世界大戦が終結した。


徹路が2歳の年、長女幸子が生まれ、祖祖母キクが70で亡くなった。5歳の年の11月、祖母安江が脳梗塞で突然倒れ帰らぬ人となった。47歳の若さであった。夫に先立たれ、がむしゃらに働き通した半生であった。末娘の春美は3月に生まれたばかり、2女の秋美がやっと2歳になったばかり。乳飲み子と手の掛かる子供達を抱え、姑に先立たれ母寿美は鳴きくれるばかりだった。


翌年1923年(大正12年)徹路は6才に成って、となり村の尋常小学校の分教場に通うようになった。


この年は9月に関東大震災、それに続いて震災恐慌が起こり、決して良い年ではなかったが、後の徹路終生の友”西宮鉄朗”が生まれた年でもあった。
更に12月には徹路の運命を変えた、吉野鉄道が橿原神宮前ー吉野口間に新線を完成させ、先に開通していた吉野口ー吉野(現在の六田駅)も含めて全線電化完成、翌年の橿原神宮前ー国鉄畝傍駅間の新線開業と会わせ、桜井の木材市場への吉野杉出荷で六田の当たりは活気づいていた。


震災恐慌もひとまず収まり、吉野村の林業も再び活気づいてきた、1926年(大正15年)6月7日後に妻となる 梨花(りか)が小学校の校長の娘として誕生した。


翌年1927年(昭和2年)徹路は高等小学校に通うため父方の叔父を頼って村役場のある上市の街に出て来た。


この町で徹路は旧制吉野中学を卒業する昭和8年までの6年間を過ごすこととなる。
この年、昭和の金融恐慌が起こった。吉野村でも、木材不況となり、林業、製材業などが打撃を受けていた。


父とは8才離れている叔父の清は父とは違って、怠け物であった、父の口利きで街の製材所に勤めていたが、仮病で休むことも多く、おまけに貧乏人の子だくさんで、まだ小学校にも上がっていない5才の長男を頭に4人の子供達が居た。


『どうせ4人も居るから一人ぐらい増えても一緒だ』と預かってくれたのだが、徹路の実家の納屋の方がよっぽど立派に見える、まるで掘っ立て小屋のようなあばら屋に家族6人が暮らしていた。


徹路の実家からは、徹路が厄介になっているからと、材木不況で苦しい中、毎月某かの金子が叔父の元に届けられていた様であったが、学校から帰ってきては、子守、水くみ、薪運びとこき使われて、おまけに満足な食事も与えられていなかった。


<つづく>
[2007/12/02 20:23] 鉄道小説 | TB(0) | CM(0)





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