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私のバイク道、その2 

とある土曜、フラッ~と一人で顔見知りである奈良のバイクショップに立ち寄った。
「エエとこにきた、コイツを雑誌に貸し出すサカイ、チョット慣らしにイコ思とんねんけど、ついてケエヘンか?」と”ビモータ!”を前にバイク屋のオヤジが言う。「エエでエ~」とつき合うことに。
ガヴァ~、ドヒャ~、とヒトッ走りして、上野のドライブインへ、「チョット乗ってみるか?」の一言に「ええの?」、チョット乗せて貰うことにした。
{ナ、ナ,,,、何だコリャ、スゲ~~エ!}次のパーキングで「ドヤ、これに乗ったらソイツは運搬車みたいやろ?」「ホンマや,,,」後は小生無言。
いっぺんにCBXがイヤになった。さりとていくら小生でも400万円はかなり厳しい。そこで出たばかりの、VF750Fに買い換えることにした。この際ついでに買っておこうと、アメリカンのNV750、ストリートモトクロッサーのMTX200。と3台まとめ買い。ガレージは満杯状態。週末は取っ替え引っ替え、乗り換えてのツーリング。
そうこうしているうちに、名古屋に転勤になった。3台は連れて行けないので、毎週1台づつ入れ替えに、ついでに洗濯物も満載して大阪に帰阪。20ヶ月で大阪に出戻り。
そろそろ飽きてきたので、VTとNVは処分。出たばかりのRZV500に買い換えた!これは、その後結婚するまで乗り続けた。この頃4輪は、軽2台を乗り継いだ後ルーチェに変わっていた。実は一時期出たばかりのRZ250をGLと2台同時所有していたことがあったから、2ストはMB、RZ、MTX、と数え4台目。そして東京転勤を期に最後に残ったMTXともお別れ。
数年間の空白が続いたが、3年ほど経ってから、同僚が、「中古の出物があるから、CB750ボルドールを買わないか?」と誘ってきた。もとより”コノヤロー”とは大阪時代、小生がバイク道(楽)に誘い込んだ間柄、断る理由もなかったので37万円程で購入。”おそろいのバイク”で連れだって良くツーリングに出かけた。
その連れに”リストラ”を通告され。東京で退社、同じくリストラ組の”ハゲオヤジ”と青梅に会社を作った。青梅に引っ越すので、このバイクとも泣く泣くお別れ?以後当分バイクとは無縁の毎日を送っていた。
”ハゲオヤジ”とも喧嘩別れ、食うにも困る生活が2年間ほど続いた。
ソンナある日、今の女房とバイト先で出会い、しばらくはそのまま大宮に住んでいたが、引き払って大阪にUターンすることにした。
別段当てもなく、半ば着の身着のままの状態で帰ってきたが、「昔取った杵柄」ではなく、「何かのために」と取得しておいた大型(自動車)免許が役にたち、長距離ドライバーに転身、今に至っている。
バイクに話を戻すと、女房には内緒であるが正直本心ではもう一度必ず、大型”バイク”に乗ってやる,,,!と思っている。
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[2006/03/05 19:07] クルマ・バイク | TB(0) | CM(0)

私のバイク道、その1 

小生は現在ミニバイクを持っている。
小生の通勤の足をつとめている、中古で買ったヤマハのミニバイクである。それがどうしたかというと、実は10年ぶりに久々に買ったバイクであった。
小生とバイクのつき合いはもう30年近くになろうとしている。普通免許歴が33年だから車よりは短い。普通の人は、ここで「アレ,,,,?」と思うかも知れない、たいていの人は2輪→4輪と免許歴が進むからである。
これには訳がある、子供の頃から自動車が大好きで、小学校の高学年の頃より、兄貴の買ってきた自動車雑誌を”盗み読み”し中学校2年からは{モーターマガジン}なる月刊誌を親にせがんで毎月買って貰って読んでいた。
{アンダーステア?オーバーステア?シミー?,,,,,,}最初の頃は記事を読んでいても、チンプンカンプン!それでも、次第に内容が理解できるようになり毎月20日が待ち遠しくてたまらないぐらいの熱烈な愛読者?に変貌していった。
時はまさに1964年東京オリンピックが開催された年でもあった。
高度成長まっただ中のこの頃、各社が競って新車を発表し、新車が出るたびに胸をときめかせながえら記事をむさぼるように読んだ。
その辺の昔話は又別の機会に綴ることにして。
時を経て1978年、小生27才の夏、理髪店で漫画雑誌の裏表紙の広告に釘付けになった。HONDAのMB50と言うミニバイクの広告であった。当時そのデザインには衝撃的と言っても良いぐらいのインパクトがあった!床屋に行くのに便利良いかも?と自分に言い訳を言い?夏のボーナスで衝動買いしてしまった。
8月のとある週末、来週から夏休みというその日に会社の近くのバイク屋で”ソレ”を引き取った、生まれて初めて載るバイク、しかも前進5段バックギア無し!?のバリバリのスポーツバイクである。信号に止まるたびに、エンストか、ウイリー?!途中”志紀”のあたりのGSに前を走っていた家族連れのボンクラカローラに”無理矢理?”追い込まれるし?!
1時間半ほどかけて、約25キロの行程を走覇、家にたどり着いた時には日が暮れかかっていた。
次の日からは、毎朝6半起床夕方4時帰着の毎日、2週間ぶっ通しで、葛城、吉野、大宇陀、橋本、河内長野,,,,,と家の近所を走り回った。おかげで夏休みが終わる頃には、バイクは”ピカピカ”でも小生は”真っ,,,黒”に、ドップリとバイクフリークに成ってしまっていた。
そうなるともう止まらない、後はまっしぐらに”バイク道(楽)?”を突き進むだけである。
自動車学校の2輪科に入学、中型2輪を取得、MB50は会社のバイト君に譲り、中古のGL400を購入、それからは、雨の日も風の日も2日酔いの朝も?、1年間365日バイクで通勤!、努力が実って10回目にして見事に”限定解除試験”合格、晴れて大型(2輪)ライダーに。早速CB750Fの中古を購入、毎夜帰宅後はガレージにこもりっきりで隅から隅まで磨きまくりの日々!週末は”土・日の2日ともツーリング”の明け暮れ。
あれ程までに惚れ込んで買った我が愛車セリカXXは埃まみれ。!36万でかったCB750Fも3ヶ月足らずで30万で手放し、憧れのCBX1000最終型を¥165万で新車購入した!当時フルオプション装備の大衆車が楽々買えた金額である。
このバイクは3年近く車検寸前まで乗り続けた。時、正にバブルになりかけの頃、高級逆輸入車の輸入量が増えだした頃のことであった
[2006/03/05 18:58] クルマ・バイク | TB(0) | CM(0)

独自開発路線か?、それとも買収派?その2 

≪貴方はトヨタ党?、それとも日産党?その2≫
今にして思えばトヨタに技術力がなかったのではない。トヨタは協力企業、特に部品納入各社の生産技術力、品質技術が”横並び”で上がるのを、ライバルのスタンドプレーを横目で睨み、耐えながらじっと待っていたのであった。
しかしこの次のシリーズあたりから情勢は違ってき出した。ライバル日産は時期ブルーバードすなわち”アップルバード?”ではあっさりと”後輪インデペンデントサスを捨ててしまって、”板バネ”に先祖返り?してしまった。
対するトヨタとその協力会社の技術力は、3代目コロナでリンク+コイルの後輪サスを大衆車市場に投入しても大丈夫なまでに成長していた。
ここに至るまで、トヨタは常に”地味”で日産のようなこれ見よがしのスタンドプレーはしなかった。唯一、TOYOTA2000GTが”谷田部のバンク”で世界記録を更新したぐらいであった。日産は派手に一品生産のR380で記録更新合戦に加わっていた。
ここで重要なことは、ヤマハの助けを借りたとはいえ、”量産車”のモディファイでの記録であり、日産は一か八かの”ワンメイクカー”での挑戦であったと言う事実である。
国産量産アルミボディーの元祖はHONDA NSXと思っておられる若い読者多いと思うが、実はこの車2000GTが最初であった、ヤマハ製ツウィンカムのヘッドを組み込んだストレート6エンジン、フルトランジスタイグナイター、クラウンで実績を積んだX型フレーム、総アルミのクロスフローのアルミラジエーター等々、今でも2000GTはマニア垂涎のコレクションアイテムとなっている。又地味ではあるが同時期のセンチュリーも忘れてはならない一台である。この車には今に続く
画期的な量産技術がテンコモリ状態であった。V8エンジン、ハロゲンランプ、フルオートエアコン、アルミラジエーター、エアサス、,,,,,等々。
コロナVSブルーバードに話を戻すと、その後両車ともFFに移行して後は皆様のご存知の通り。そして生みの親であるTOYOTAと日産の勝負は、,,,,。
地道な努力の積み重ねでグループ各社の生産技術力の底上げを図ったTOYOTAはカンバン方式と呼ばれる有名な生産方式を網だし、流通コストと部品の滞留コストを押さえ”世界1”の優良自動車会社に成長した。技術面でも、ハイブリット車で業界に先鞭を付けたし。今や世界最高峰の自動車レース”F1GP”の世界でもオール純性TOYOTA F1マシンが頂点に上り詰める寸前までになっている。
ITバブルに乗じたマネーゲームで大恥をかいたホリエモンが世の中を騒がせている今この時こそ、技術立国ニッポンのあり方を、両社の栄枯盛衰を参考に考えてみるときではないか。
[2006/03/04 18:51] クルマ・バイク | TB(0) | CM(0)

独自開発路線?それとも買収派?その1 

≪貴方はトヨタ党?、それとも日産党?その1≫
その昔、トヨタ自動車は日本最初の純国産技術で乗用車を作った。
それから時は流れて、小生が幼少の頃、初代トヨタクラウンが世に出た、この辺のいきさつは、”プロジェクトX”でも紹介されたのでご存知の方も多いと思う。
そのころ日産は、英国オースティン社と業務提携をして、ノックダウン方式による国産車製造に乗り出した、それが、初代DATSUNである。日産はその後、ダットサンを改良し続けオーストラリアの国際ラリーで優勝の快挙を成し遂げる。そして独自開発による初代ブルバードへとつながる。しかしDATSUNのエンジンの系譜はA型シリーズとして、その後もサニー、チェリーと脈々と受け結がれる事となった。日産が完全に自社技術と呼べる技術で”量産大衆車”を完成させたのは2代目ソニックラインのブルーバードを完成させたあたりである。当時としては画期的なこの車は、ライバルアローラインのコロナと共に庶民のあこがれの的であった。そしてこの頃日産は”技術の日産”を全面に打ち出す販促戦術をとっていた。確かにその頃のトヨタ車はメカフェチ少年?であった小生にとって、興味を引きつけるところなど何処にもなかった。
モータリゼーション黎明期の自動車ジャーナリストの連中も、”トヨタの80点主義”の産物などとコケにしていた?
メカフェチ少年には、全く興味を引くところがなかったコロナではあるが、市場での軍配は確実にコロナにあがっていた。
何故か、答えは簡単その耐久性、堅牢性、そして交換部品のコストも含めてのメンテナンスの容易さにあった。まだまだ日本全国至る所に極(悪)道{国道をもじって”ゴクドウ”と読む}が広がっていた時代、SOHCのエンジンはともかくとしてもBBの”4輪独立懸架”には厳しすぎた。伸縮スリーブやジョイントカバーが悲鳴を上げたのは言うまでもない。
このBBのインデペンデント後輪サスには発売当初おもしろい逸話があって、あるユーザーが新車を販売店で受け取り家に帰るまで、親切な後続車に「貴方の車の後車軸が折れている!」と何度も止められたと言うのだ。当時リジットアクスルが全盛の時代、一般ドライバーにとって、タイヤがハの字に成りっぱなしで走る車など信じられなかったのだ!確か
に日産の快挙というか”暴挙”のおかげで、部品メーカー、特にベアリングメーカーの技術力はいやがうえにも強引に引き上げられ、その後の世界一の技術力へとつながるのではある。
[2006/03/04 18:37] クルマ・バイク | TB(0) | CM(1)





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